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   V 私たちが為すべきこと  
     
   1. 新しい信仰と宗教(1)  
    私は第一章で「信仰」と「宗教」についてこのように述べた。
@信仰を持っている人ほど、「良き人間」になることは遠くなる。
A信仰を持っている人が多いほど、「良き世界」を作ることは遠くなる。
また
@宗教が幅を利かせれば利かせるほど、人が「良き人間」になることは遠くなる。
A宗教が幅を利かせれば利かせるほど、人が「良き世界」を作ることは遠くなる。

 信仰をお持ちの方にはショッキングなことかもしれないし、強固な信仰をお持ちの方は「怒り」を覚えるのかもしれない。だが、あえて、こう断言することにしよう。
@宗教は、「より良き人間」を作る役目を果たせないので、
         「より良き人間」でなければ作れない「より良き世界」は作れない。
A信仰は、「より良き人間」を作れない「宗教」に人を足止めするので、人が「より良き
      人間」になることも、また「より良き世界」を作ることも遠ざけてしまう。



 さて、ゆっくりと一つ一つ問題を探って、既存の信仰と宗教ではない、新しい信仰と宗教を創造したいと思う。

 私は、この宇宙が二つのものしか作れないことを知っている。その二つのものとは「星の世界」を代表する「天体構造」と、星の上か近傍に住まいするであろう生き物、つまり「生物構造」である。生物の中には、私たち人間のように、この宇宙にたくさんのものを創造するものがいる。有形、無形を問わず、およそ「理性」を持った生物ならば、とても多くのものを創造するであろう。
 私たちの「理性」は私たちの暮らしをとても豊かにした。「理性」はまず自然の中にあるルールを発見する。これは、昔は哲学者の仕事であったが、今は科学者の仕事である。一人の科学者が発見した自然のルールが妥当なものであるかどうかは、不特定多数の人が批判と推敲という方法で吟味する。そして「今のところ正しい」とされたルールを用いて、今度は工学者や技術者が、何とかこのルールを私たちのために利用できないかと考える。彼らは、「自然のルール」を応用した「新しいルール」を考案して、それを元に様々なモノをこの宇宙の中に創造する。創造されたものに使用された、モノの作り方や維持の仕方という「ルール」も、私たちの「理性」はずっと監視していて、「圧力」と呼ばれるニーズに応えてゆくために、「ルール」は随時改善されてゆく。最も考慮に入れられる「圧力」は、私たち人間の「欲求」というニーズである。私たちの「欲求」を満たすため、「理性」はそれに必要な「ルール」を構築し、その度に新しいモノは創造されるか、また洗練されてもきたのである。だが、私たちの「欲求」を最大の「圧力」として「ルール」を作ってきたのでは、うまくゆかないことがあることを私たちは知った。「環境」というものを尊重しないことには、大きなしっぺ返しを喰らうことを学んだのである。それゆえ私たちの「理性」は人間の「欲求」に答えることもするが、「環境」にも配慮をするという「ルール」を選択するようになった。二つの、ともすれば相反するような要求なのであるが、「理性」はそのような要求にも答えようと、さらなる「ルール」の創造と洗練に励んできた。大きく重たいものは、省資源省エネルギーという環境のニーズのために、軽くて小さなものになった。一度作ったものはできる限り長く維持できるように耐久力を高める工夫がされ、また全く逆に、壊れた時には再利用ができるようにと壊しやすい工夫もされた。自然の災害が起こるたびに、人々の命の犠牲を小さくしようと、科学者は現場に赴いて現状をよく観察して、災害のメカニズムの把握に努めて、その結果得られた知識で新しいルールを構築してもきた。工業によって排出される有毒なガスや汚水は、排出量ゼロを目指して改良が進められた。「自然」や「環境」そのものの保護のために、私たちの行為を制限するルールもたくさん作られた。私たちの「理性」はこのように、私たち人間の要求を叶えるために、ずっと新しいルールを創造し続けてきたから、今でも私たちの作ったルールはモノの数だけ、そして制度や組織の数だけあるのである。
 「理性」が「ルール」という無形の、数式や言葉でしか表現しようのないものを作り上げて、その「ルール」に従って作られたものがあるのが、この世界なのである。「自然のもの」とは「宇宙」の「理性」によって構築されたものであり、「人工のもの」とは私たち人間の「理性」によって、構築されたもののことである。そして、これからもずっと「宇宙」の「理性」は「自然のルール」を、人間の「理性」は「人工のルール」を創造し続けてゆくのである。
 人が「理性」を持っていることは、以上のようにとても素晴らしいことであると言える。範囲は限られているかもしれないが、この「宇宙」と同じように「ルール」を作って、新しいものを創造してゆくことができるのだから。「法治フィールド」であるこの宇宙で「ルール」そのものを扱えること、それがどんなに素晴らしいことなのか、は本当なら言語に絶する。ただ、私たちの「理性」が「ルール」を作り出すことは、誰もが当たり前に思っていることだから、誰もそれに気づいたり、感動したりはしないだけなのである。



 人間は「ルール」を扱える。「法治フィールド」である、この宇宙で「ルール」そのものを扱えるのである。他の生き物のうちたったの一つも「ルール」を直接扱える生き物はいない。「社会主義」のサルもチンパンジーも、「自由主義」のゴリラもボノボもいないのである。彼らは高い知性はもってはいるが、私たちに比べたら足元にも及ばない。彼らには「知性」はあっても「理性」が乏しいままだからだ。また、「学習能力」という生物に本来的に備わった「理性」なら、全ての生物にもありはするが、「人間」のそれは明らかに突出している。人間以外の生物が自らのニーズに応じて新しい「ルール」を構築することなどありえないから、目的に応じて、自ら意図してルールを構築するようになった人間だけが「文明」を持っているのである。人間の「理性」が、他の生物に比べてどれぐらい突出しているかというと、たったの一つも見えたり聞こえてきたりはしない「自然のルール」を、観察することで見抜いてしまうほどに、私たちの「理性」は突出しているのである。そして私たちの「理性」はついに、この「宇宙」という全体を構築した「ルール」を見つけることに成功した。「万有引力の法則」「クーロンの法則」「マックスウェル方程式」「相対性理論」「シュレディンガー方程式」「不確定性原理」などなど、この宇宙を構築した「ルール」の総称を私たちは「物理法則」と呼んでいる。この宇宙を構築した基本的なルールも、そこから派生する細かな領域のルールも、その多くが物理学者をはじめとする大勢の科学者によって解き明かされて、私たちは、この宇宙の誕生からの生い立ちや、その終焉さえも理解するに至ったのである。
 私は、この「宇宙」というフィールドを、自分がそこに生まれて、今もそこに住んでいるのだから、何も知らないというのは実におかしなことだと思って、探求を続けてきた。そして、「自然のルール」「宇宙のルール」にはある特徴があることがわかり、その特徴が私自身の「理性」が涙するほどに素晴らしいものであることを知った。
 私は、この宇宙が、「法則」と呼ばれる「絶対性」と「普遍性」を持ち合わせた、完全に平等な「ルール」によって構築されていることを知ったのである。私の理性は、この宇宙を構築した「物理法則」のすべてが「法則」と呼ばれるために必要な条件である「相対性原理」を満たしたものであることに、涙した。私の「理性」は、この「宇宙」が、なんと素晴らしいルールで構築されたフィールドであるかを知って涙したのである。
 それゆえ、私は、「私の行為のルール」もこの宇宙のルールと同じ特徴を備えるべきだと考えた。だから私は、自分が周りを観察することで自然に身に付けたルール、また周りの人間に教わったルール、自ら学んだルールなど、無意識の中に格納されたものも意識の中にあるものも、私がそれに気づいたときには、それが宇宙のルールにふさわしいかどうかを判断するために、「相対性原理」というメタ・ルールを物差しとしてあてがった。そして、この原理を満たすルールはそのままにして(そんなものはほとんどなかったが)、満たさないと思ったら「訓練」をして取り除く、ということを繰り返してきた。だが、元々、私が身につけたルールのほとんどがこの宇宙にはふさわしくないものであることがわかっているし、その数も多く、中には訓練しても訓練しても取り除けないような強固なものもあるから、この私自身の苦闘は、私の人生が終わる日まで続くと思う。だから私は、死の瞬間でさえ、「良き人間」には決してなれることはなく「より良き人間」になるのが、最善のことだと思っている。

 

 この宇宙は「法治フィールド」である。だから、全てのものは「ルール」に従って構築され、「ルール」に従って維持され、「ルール」に従って壊れてゆく。この宇宙では新しいモノが創造される時に用いられた「ルール」が妥当なものであればあるほど、そしてそれを維持する「ルール」が妥当であればあるほど、そして、そんな「ルール」が広く長く遵守されているほど、「秩序」の高い状態を保つことができ、そのことで本来「壊れるもの」をなるべく長く維持することができるのである。だが、「壊れる」ことそのものを防ぐ手立てはない。それは「壊れること」そのものが、「宇宙のルール」だからである。


「ルール」はこの宇宙中に、そして私たちの世界のどこにでもあるのだが、どういうわけか、全ての「ルール」が見えない。
 全てのものが「ルール」に従って構築され、「ルール」に従って変化したり「ルール」に従って運動しているというのに、「ルール」は全く見当たらないのである。
 自然の中には「法則」という「ルール」があり、生き物の中には「走性」「反射」「習性」「本能」などの「ルール」を持っているものもいる。そして、これらに加えて、私たち人間の世界には、「憲法」「法律」「法度(はっと)」「規定」「規則」「きまり」「規約」「規律」「性格」「道徳」「倫理」「道」「理」「おきて」「定め」「行儀」「礼儀」「作法」「マナー」「エチケット」「方法」「仕方」「手段」「術」「仕様」「レシピ」「手口」「やり口」「方途」「手立て」「方式」「定石」「方便」「様式」「条約」「協約」「協定」「憲章」「取り決め」「宣言」「覚書」「議定書」など、数多の「ルール」がある。
 こんなにある「ルール」もたった二つに分類できる。それは「戒」と「律」である。「素粒子」にさえこの区別はある。「戒」は、それぞれのモノや生物が自ら従っているルールである。「性質」「習性」「性格」などがこれにあたる。つまり、他者のあるなしに関係なく従っているルールである。一方「律」は、他者との関係性の中にあって、いわば「全体」が「部分」に課すルールである。人の場合は、この「律」というルールがやたらと多い。個人間にも、企業間にも、地域間にも、国家間にも、人の社会の中には、「個」と「個」の間には絶対にこの「律」がある。だが、たった一つ絶対になくてはならない「律」がない。それは「世界」という「国家」の全てを「部分」として持つ「全体」には「律」がない。人間には吐き気がするほどたくさんある「律」だが、人間以外の生物は、「律」をたったの一つも持っていない。「律」は罰則規定のある「ルール」である。だが、監禁されたサルも、磔刑に処されたチンパンジーも見たことはない。人間以外の生物は、罰則規定のあるルールには、たったの一つも従っていないのである。生物は「戒」にしか従っていないのである。サル山のボスがルールを守らない若いサルを怒っていることは良く見かける光景である。でもあれは私たち人間の「躾」と同じで、ルールを「戒」として習得させようとしているだけのことであって、「罰」を与えているわけではないのである。「律」がないのに、「生物世界」という全体はどうやって「秩序」を維持しているのであろうか? 進化の度に生まれてくる新しい「種」が自分勝手な「ルール」に従って生きていたら、「生物世界」はとりとめのない無秩序なものになってしまう、が心配はいらない。「宇宙の理性」は、「律」を持たない生物をまとめあげるため、素晴らしいルールを構築している。それが「自然淘汰」というルールであり、生物はこのルールによって制限を受けているのである。「自然淘汰」とは生物が生きてゆく「環境」(他の生き物や自然)が、その生物に勝手なルールを作らせないようにする「ルール」のことである。 生物は種ごとに、「戒」を持っている。だが、この「戒」そのものは「自然淘汰」という「律」によって制限を受けていて、それに適ったものしか残っていないのである。「自然淘汰」は「生物進化」のメタ・ルールであって、「自然淘汰」によって生物は滅びもするが、進化の方向を制限することで、進化の道筋を示し、可能な限り長く維持するルールや構造を生物に与えてているのも「自然淘汰」というルールなのである。
 これはただの分類だから、実際にある「ルール」の数はこれどころではない。人と人との間にある「ルール」は相手が変われば変わり、状況が違っても変わるから、身近な人ならば、基本的には一人一人の「個人」を相手に、置かれた「状況」ごとに異なったルールを適用しなくてはならないのである。(それができないと{KY」と言われる。)また、国や民族や地域が違えば、それらの全てが根底から異なったものとなることもあるから、どこかへ行くなら、それも知っておく必要がある。人とモノや生き物との間にも「ルール」はあって、生き物なら種ごとにルールは異なり、モノなら、一つ一つのモノごとに異なった「ルール」はある。セラミックの器を持つときと、バカラのグラスでは「扱い方」というルールが違っているのである。これらの「ルール」は文字や数式で表現することはできる。円滑な人間関係に必要なルールの本もたくさんあるし、外国でのルールの違いを書いた本もあるし、動物の飼い方の本はあるし、モノには取扱説明書というものがあるから、ルールを文字にすることはできる。だが、それに従って人が行動しているときに、その文字が見えるなんてことは絶対にないのだ。
 この宇宙の中にある全ての「ルール」は「存在」そのものとその運動や変化の中、つまり「現象」の中に格納されていて、決して表には出てこないのである。私たちが目にするもの、感覚器官で捉えるものは、全て「ルールを表現したもの」あるいは「ルールを映し出したもの」なのである。
 ギリシャの哲学者は、このルールの世界のことを「イデア」と呼んだ。「法則」という最高のルールで構築された星や自然の世界の美しさに感銘を受け、そして憧れて、彼らはその世界を「コスモス」(秩序)と名付けた。そして、その同じ目で「人間世界」を見た哲学者たちは、みんな愕然とした。自分が属する「人間世界」の有様だけが、「自然」とは似ても似つかぬ、無秩序なものであったから、愕然としたのである。                  (次項に続く)
 
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