V 私たちが為すべきこと  
     
   2. 新しい信仰と宗教(2)  
   結局、私は、みなさんに次のような提言を行いたいと思う。
@「自然科学」の知識を自ら探求して、この宇宙というフィールドを自分がそこに住まい
  するものとして理解する。
A自分の「理性」を信じて、我が道を歩む。(自分のルールに従って生きる。)

 そして、みなさんがもしご自身の「理性」を用いられたのであれば、次のようなことにお気づきになると思う。

 @この宇宙が「法治フィールド」であるということ。
 A「自然」のルールは、「普遍性」と「絶対性」を備えている「法則」と呼ぶにふさわ
   しいものが多いこと。
 Bこの宇宙では、なにものであっても「妥当なルール」で構築し、なにものであっても
  「妥当なルール」で維持するほかには、「秩序」を高める方法がないこと。そして
  「秩序」の高い状態を維持しないことには、「安定」「安心」「安全」は得られない
   こと。
 C「力」をいくらたくさん獲得しても、「秩序」とは本来無縁のものであること。
 D生き物にとっては、本来無縁のものであるはずの「力」と「ルール」が、群れで
   暮らす動物の「習性」:「力関係」の決着を付ければ、上位のものから順に
  「有利なルール」において、生きてゆくことができる、によって、「力」と
  「ルール」が関連のあるものとなり、それゆえ、人の「力関係」の決着が、熾烈な
   ものになるということ。
 E一度「力関係」の決着が付けば、勝者は敗者に対して「有利なルール」を押し付ける
  ことができること、また敗者は、勝者から不利なルールを押し付けられることを甘ん
  じて受け入れることを、双方ともに「習性」として持っているため、誰も疑いもせず
  「当然」と思っていること。
 F「一方に有利なルール」とは「不平等なルール」「妥当でないルール」であり、それを
  誰もが当たり前としているために、勝者も敗者もともに、「自分の行為のルール」には
  自分の「理性」を向けようとすることがないこと。
 G「自分の行為のルール」が妥当でないために、人は常に「不当なルール」を押し付ける
  相手も、押しつけられる相手も、元々ルールが生じない関係である「他者」だと思って
  いること。
 Hそれゆえ、人の世界には基本的に「他者」しかいないこと。「他者」しかいないので、
  元々「ルール」に関わる能力である「理性」が人と人との間では、ほとんど働かず
  にいること。
  

 みなさんは、誰でも「幸福」を求めていると思うが、みなさんは、ずっと「力」を手に入れることが「幸福」をもたらす唯一の手段であると思っている。人より多くの「財力」「権力」「能力」などを持つこと、それが「幸福」なのだと思っておられるのである。「競争」に参加して、「勝利者」となって、「大きな力」を獲得した人を皆さんは賞賛なさるのだが、彼らのしていることと言ったら、「不平等なルール」をそれと知っていて「敗者」に押し付けることなのである。例え微々たる「不平等」でも、それがルールとなれば話は違う。例えば、ひと月の「給料」が少し違っているのであれば、一年ではそのルールが12回繰り返されるだから、その差は大きくなる。十年なら120回繰り返されるので、もっとずっと大きくなる。また、自分の会社にいる正社員になれなかった「敗者」が、派遣社員として同じ職場にいて、自分と同じような能力で自分と同じような仕事をしているのを知っていて、彼らが「不平等なルール」を押し付けられていて、生きてゆけぬ程に困窮していても、競争に負けたのだから当然だと考えている。そして見て見ぬふりをしているのだ。そういう人たちは、多分「彼は『他人』で、自分とは関わりのない人だし、彼が困窮しているのは自分とは関係のないことだ。」と自分に言い聞かせているのだと思う。それゆえ、人は「争い」を繰り返す分だけ、「他者」を作る。勝っても負けても「関係がない」と自分に言い聞かせないと、生きてゆけないのである。「勝者」の多くは宝くじに当たって「力」を獲得したのではない。自らの能力(知性や理性)を用いて「勝者」となった人がほとんどなのである。だから、彼らの「理性」はとっくに自分自身の「不正」を見抜いているはずである。だから、彼らは、彼らの中の「理性」は「関係がない」という言い訳をするのである。「関係がない」のであれば、関係のないものとのあいだで「ルール」は生じないし、「ルール」などなくても良いことを「理性」は知っているからである。
 みなさんは、「秩序」の非常に低い環境で暮らしている。「人間社会」ほど「秩序」の低いところはないのだ。人以外の全ての生き物は「習性」や「本能」をしっかりと守っている。みなさんが「たかがモノ」とバカにするものは全て、「物理法則」というルールを完全に遵守している。だが、人は自由に「ルール」そのものを操ることができる「理性」を持っているというのに、「ルールを尊重」している人はほとんどいないのである。「自分の行為のルール」だけには「理性」を向けないし向けることができない人間は、お互いに「ルールを尊重」しなくても良い「他者」をどんどん作り続けているのである。大きな駅のコンコースに立って、大勢の人並みを見渡してみるといい。人はこれほどたくさんいるのに、あなたのことを大切に思っている人はたったのひとりもいないのである。あなたのことを大切だと思って、だから「ルール」を尊重しようと思っている人はたったの一人もいないのである。みんなみんな、お互い何のルールも守ってはいない赤の「他人」なのである。恐ろしいと思っていただきたい。「理性」を持つ人間が、「理性」ゆえの「狡猾さ」や「残虐さ」「残酷さ」を持っている人間が、何のルールも持たずに生きていることを。
 赤の他人から、自分の身内が傷つけられたり、自分の生活にダメージを与えられた人は、みんな加害者にこう訴える。「人の命を何だと思っているのだ!」「あんたそれでも人間か!」でも、そう言う人は絶対に、普段の生活で「人の命を守るため」には何もしていない。普段の生活において、人の命の大切さを胸に刻んで、生きているのであれば、そう言う人が人に土下座をさせたり、人を罵倒したりはしないものである。だから、そう言うことを言う人に一回聞いてみても良い。「では、そういうあんたは、人の命を守るために一体何を心がけて生きているのかね?」「いったい全体、あんたが言う「人」というのは、どこの人のことを言うのかね? あんたの知り合いのことか? あんたの身内のことか? それとも、あんたとは何の関係もない赤の他人のことか? いったい誰の命が大切なのかね?」 自分とは関係のない人の命を大切に思う人には、私はたったの一度も会ったことがなくて、そう言う人が普段の生活でどんなことを心がけているのかも聞いたことがないのである。だが、今の私はそれを私自身の「理性」から教わったから、「ルールを尊重」して生きているのである。私は、「神」も「仏」も壊れないのを知っているし、彼らからは「ルールのお目こぼし」「特別扱い」も「力」を授けてくれることも、全く望んでいないから、彼らと私のあいだでは「ルール」がない。だから私は「神」のルールも「仏」のルールも全く守ってはいない。だが、私の周りにあるものは全て「壊れる運命」にあり「死すべき運命」にある。だから、なるべく壊れないように、なるべく傷つかないようにと、「ルールを尊重」して生きているのである。私の世界には、「他者」も「他物」もたったの一つもいなくて、全ては「ルール」において守るべきものであるのにみなさんの世界は「ルール」を守る必要のない「全く関係ないもの」である「他者」しかない。だから、みなさんはせいぜい「神」や「仏」とのあいだにある「ルール」はお守りになってお布施や供物を捧げ、お祈りをし、彼らへの感謝の気持ちをお持ちになるが良い。そして、自分の周りにある壊れるものと死すべきものとの間にある「ルール」を「不平等なルール」にして、「力」をもって、どんどん自分勝手なルールを相手に適用なさると良い。ご自分なり、家族なり国家なりを「特別」扱いなさって、異なる「ルール」で処遇するという「差別」を行って、たくさんのものや人を傷つけなさると良い。それでお互いに死んで「神」と「仏」の前に出たとき、「神」や「仏」を崇拝し、たくさんの供物と祈りを捧げたみなさんと、そんなことは一切しないが、生きているあいだにたったの一つのモノも人も生き物も傷つけまいと「妥当なルール」を自らの「理性」に問うて、それをずっと遵守することをしてきた私とで彼らの審判を仰ごうではないか? どちらが、「神」や「仏」に適う行いであったか、彼らに判断を下してもらおうではないか? (次項に続く)
 
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