V 私たちが為すべきこと  
     
   3. 新しい信仰と宗教(3)  
   みなさんは、お互いにこの宇宙にたった一人の存在である。だから、お互いに本当に「大切に」思っていただきたい。
 みなさんの中にある、この宇宙と同じ「理性」は、みなさんが大切に思う人やモノと出会うと、途端に働き始めるのである。休みになれば、車や釣竿やゴルフのクラブを丹念に磨く「習慣」というルールを身につけている人は大勢いる。だが、これらのルールは誰に言われたわけでもないはずで、みなさんが自ら進んでお守りになっているルールであるはずだ。みなさんの中にある「理性」はちゃんと、「関係性」を見出せば働き始めるし、「大切に」思えば思うほど、みなさんに妥当なルールを良く守らせるのである。同じように人を大切にしようとする人は、自分の中に「戒」と呼ばれるルールをたくさん作っている。相手を大切にしたいからという思いがあれば、自ら守るべきルールを自分で作って、喜々としてそれを守るのである。一方、人を大切に思うのではなく、人を便利に扱おうとする人は、自分が守ってほしいルールをたくさんたくさん押し付けてくる。つまり「律」と呼ばれるルールをたくさん作って人をがんじがらめにしてしまうのである。それゆえ、自分のルールが「他者」から押し付けれたルールでいっぱいに埋まってしまっている人もたくさんいる。他者の「指示」や「命令」、宗教の儀礼や祭祀、他者の「期待」、他者の「評価」など、みなさんの「行為のルール」を直接制限するものも、また「圧力」となりそうなものもたくさんある。だが、こういったもので「行為のルール」が埋まってしまうと「理性」が働く余地がない。残念ながら、私の周りにいるほとんどの人が、一度も「理性」や「知性」を働かせずに生きてこられたような人なのである。こう言う人は、絶対に自分の行為の責任を取らないので、すぐにわかる。自分のルールに従って行った行為ではないので、責任など取れるわけがない。
 「理性」は、優しさや愛といったものなくしては、絶対に働かない。相手が何であっても、それを大切に思うからこそ、「ルール」が必要になってくるのであって、相手が壊れようが、死のうが関係ないというのであれば、そういうものとの間では「ルール」など必要ないわけだから、「理性」が働き始めるわけがない。だから、何かを大切に思い、自ら進んで守るルールをたくさん持っている人のことを「思いやりのある人」という。「思いやり」の「広さ」は、この宇宙にあるどれだけの存在を大切に思っているかで決まる。たったひとりの人や、自分の家族、自分が勤めている会社や国家にだけ「思いやり」があるというのであれば、それは非常に狭い「思いやり」である。一方「思いやり」の深さは、相手との間にあるルールを「妥当なルール」「適切なルール」にして、それをどれだけずっと守り続けてあげることかで決まる。「思いやりの深い人」は、誰が考えても納得のいくルールを、自ら進んでずっと守り続けてくれる人のことである。それゆえ、「思いやり」は「広さ」と「深さ」を問われるものである。「思いやり」に限らず、この宇宙で大切なものはみんな「広さ」と「深さ」で推し量れるものなのである。「知恵」にも「広さ」と「深さ」があるし、「愛」にも「広さ」と「深さ」があるように思う。そして、どれも「広くて深い」のが最高である。この宇宙にある全ての存在を大切に思って、全ての存在を大切にするためのルールを全て「戒」の中に納めた人は仏国土や天使の国に住む。すべての存在を傷つけずに、全ての存在とうまくやるルールを我が身のルールとして持っていて、それを自ら進んで守っているのだから、そう言う人だけがそういう場所に住む資格がある。仏国土にも天使の国にも警察はないし、「罰則規定」のあるルールである「律」さえない。そんなものは必要ないからないのである。そこに住む人のすべてが、自らのうちに必要なルールの全てを知っていて遵守しているのだから、そいうものは全く必要ないのだ。
 
 みなさんが、この宇宙にある全ての存在と「関係性」を見出し、この宇宙には「他者」がいないことに気づいて、全ての存在に対して「思いやり」の心を持てば、みなさんの中にある、この宇宙と同じ「理性」が、後はオートマチックに「妥当なルール」を示唆してくれる。守らなくてはならないのは「神」や「仏」との間にあるルールではなく、壊れることが確実で、死すべきことが確実である、この宇宙にある全ての存在との間のルールなのである。みなさんも私も死すべき運命にあるとは言え、周りの人の「思いやり」と「配慮」で、できる限り長くそして平和に安心して暮らしたいと思うであろう。そのためには「力」の獲得競争を控えめになされて、「力」の多寡で「不平等なルール」を押し付けることも押し付けられることも、控えめになされて、「ルールを尊重」されて生きてゆかれるのが一番良い。
 
 「理性」は「ルール全般に関わる能力」である。「ルール」は本来、それを遵守している者同士が傷つかないよう、壊れないようにと守るものである。そして、そういうことができるのもまた「ルール」だけなのである。どうぞ、ご自身の「理性」を信頼なされて、「力」からはそっと遠ざかってゆかれて「ルールそのものを尊重なさるように」生きていただきたい。そうすれば、新しい信仰と宗教がご自身の中に芽生えてくるであろうと思う。適切な時期に適切なルールにおいて、みなさんの「理性」がみなさんを導いてくれるであろう。「ルール」は共にありたいと願う心にだけ生じることをお忘れにならないで、できればこの宇宙にあるもの全てを大切にしていただきたいと思う。そうすれば、いずれの日か、自然という自然、星という星、モノというモノ、この宇宙にある全てがあなたの「思いやり」と「配慮」に感謝して、微笑みかけてくれるであろう。そして、その微笑みの中にみなさんは人類最高の幸福を見つけるのである。それは、自分やこの宇宙にあるもの全てが「永遠であること」を自ら知るという、とてつもない幸福を見つけるのである。
 
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