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   V 私たちが為すべきこと  
     
   4. 理性に対する批判  
   本文の中で、「理性」「理性」と言ってきたのであるが、「理性」そのものについては、ほとんど何も言わなかったので、カント先生のように「理性」そのものについて、少し話しておいたほうが良いと思う。
 「理性」は誰にでもあるはずである。「100円で50円の物を買うと、お釣りは30円である」というのを「おかしい」と思う人には「理性」はある。数学は抽象的な概念である「数」と実体のない「ルール」だけで構築された世界であるから、このようなことを理解し使用できる人間が「理性」を持っていないとは思えない。言葉も同じように「論理」と呼ばれる「ルール」と言葉によって指し示されているもののほとんどは、抽象的な概念であるから、やはり「理性」無しでは、理解することも使用することもできないしろものであろう。だから、「算数」を理解し、「言葉」を話す人には「理性」はあると言って良い。だから、世界にいる全ての人に「理性」はある。そして、「理性」には「ルールの整合性」を厳しく問う性質がある。私たちの理性は、どんなルールも法則と呼ぶにふさわしいものであることを要請するし、一つの体系の中にあるルールが無矛盾であることも要請する。それゆえ、私たちは矛盾のあるルールを作ったことはないし、矛盾したルールに従って作ったものというのもない。ただし、理性が全てのルールに対して「法則性」を強く求めるかどうかについては疑わしいのかも知れない。私と私以外の人間の「理性」の違いといえば、この点であるかとも思う。
 「理性」については哲学者の多くが語っていて、とりわけカント先生は「理性」の大家である。だがカント先生は、余りに哲学者たる言葉をたくさんお使いになっているから、とても庶民には理解できるものではない。私もポパー先生と同様に、哲学が言葉遊びに翻弄されるのは全然好みではなくて、あくまで「現実問題の克服」という実践的な側面を持たないことには意味がないと思うので、みなさんにはごくごく普通の言葉で「理性」について話したいと思う。それから、「知性」や「悟性」も同じようなもので、別段区別する必要はないと思う。だから、「理性」を「知性」や「悟性」と置き換えてもらってもここでは別に問題はない。

 まず最初に「理性」には何ができるかについて考えてみたい。
 私たちは「自然のルール」の把握に関して、他の生き物とは比べ物にならないほど多くの「ルール」を見つけ出してきた。他の生き物にも周りの環境にある「ルール」の把握を行える能力はあるから、この能力は私たち人間固有のものでは決してない。だが、その能力の絶大さたるや、他の生き物の比ではないことは「宇宙」のルールである「物理学」を理解できたことでも十分に証明される。だから「理性」は「ルールの把握」を行える。
 私たちは、「ルール」に従って膨大な数の「構造」を構築してきた。「構造」とは、「一貫性のあるもの」「規則性のあるもの」「循環性のあるもの」「連続性のあるもの」など、そこに何かしらの「秩序」を見いだせるものであり、それは何かしらの「ルール」に従って構築されたもののことである。そして、私たちの作ったもの全てが「構造」であることからしても、私たちは、モノの数だけ「ルール」を構築してきたことになる。そして「ルール」そのものも洗練されて進化してゆくから、そのことまで考慮に入れると、私たちはやはり膨大な量の「ルール」を作ってきたわけである。そして、私たちが構築してきたのは有形のものだけではなくて、組織や制度、政治体制といった無形のものも構築してきたから、これらについてもたくさんの「ルール」を作ってきたことになる。私たち人間が他の生き物とは違い「文明」と称するものを持っているとしたら、「文明」とは、私たちがはっきりとした目的や意図を持って、「ルール」を構築することを意味するものだと思われる。偶然に獲得した「ルール」ではなく、必要性を感じて「ルール」を作り始めたこと、それが「文明」の発祥だと思う。そして「文化」というのはその土地土地にいた人間によって考案された固有の「ルール」に従って構築された有形無形の構築物の総称である。だから、世界の中には、数多くの「文化」がある。そして「文化」の衝突とは、「ルール」の衝突である。統合される「ルール」もあれば、触発されて新しい「ルール」が生まれることもある。そして人間によって故意に排除された「ルール」もあれば、自然淘汰されてなくなってゆくルールもある。いずれにせよ、私たちは非常に多くの「ルール」を構築してきたことは間違いない。だから、私たち人間の「理性」は、「ルールを把握すること」「ルールを創造すること」ができ、その能力については他の生き物とは比べものにならないほどに突出しているのである。
 「理性」に何ができるかについてわかったところで、次に「理性」が機能するメカニズムについて少し考えてみよう。私が思うに、「理性」は誰にでも備わっていて、誰でもがいつでも使用できるものであるのに、「理性」の使用に関しては、人によって大きな差があるように思う。ではなぜ、このような大きな差が生まれるのであろう? 人がいつもいつも「理性」を使っているのかというと、きっとそうではない。「理性」にできることがわかっているのだから、そういうことが必要な時にだけ、「理性」は働くのだと言える。つまり「理性」が働くのは、「ルールの把握」が必要なときと「ルールの創造」が必要な時だけである。そして全く逆に「ルールの把握」や「ルールの創造」が必要でない時には、「理性」は働かない。
 私たちが身につけている「行為のルール」のほとんどは、幼少期からの日常生活において、近親者の見様見真似で身につけたものか、学校や職場で「躾」や「訓練」をされて身につけたものだ。また、「指示」や「命令」されたもの、「言い聞かされたもの」なども、「行為のルール」となる。いずれにせよ、私たちの「学習能力」は相当に高いレベルにあるから、一度「ルール」を身につけてしまうと、それは無意識の中に格納されて、後はオートマチックに行為するようになる。まぁ、余り使わないルールならば忘れてしまうこともあるが、日常よく使うほとんどのルールは体が覚えているものだ。私は今、文章についてはあれやこれやと考えながら作っているが、パソコンの操作を考えながらしているわけではない。だから、物事を考えながら進めるのは、おそらく最初のうちだけである。同じことを繰り返し行っていたら、ルールは誰でも自然と覚えてしまうから、体が覚えた後は、いちいち次にすることを考えながら何かを行うことなどないはずだ。「ルールの把握」が終われば、後は大抵のことはきっとオートマチックなのである。と言うことは「ルールの把握」をしている時には働いている「理性」もそれが終わって、「ルール」を身につけた後は働かないということである。もし、幼少期から、一度身につけた「ルール」を全く変更しなかったり、新しい「ルール」を追加することがないというのであれば、そう言う人はほとんど「理性」を使ってこなかった、というわけである。つまり何事においても、「慣れて」しまえば「理性」は働かないのである。また、無意識の中に格納された「ルール」の中には前にも述べた「戒」(自分を律する内面的な道徳規範)と、「律」(自分が所属する集団における規範)がある。私たちの誰もが「国家」と呼ばれる「集団」の中に「国法」と呼ばれる「律」に従って暮らしているが、「集団」のルールである「国法」については、誰もほとんど何も知ってはいない。「国家」「地域」「学校」「会社」など、自分が所属する「集団」が持つルールの数は、それだけでも膨大であるから、誰もそんなものをいちいち覚えて暮らしているわけではないのである。では、「律」は一つも無意識の中に格納されていないかというとそうではない。元々、自分の周りの人の多くが「律」に従って暮らしているから、「見様見真似」で獲得したルールの中にはもう既にたくさんの「律」が入っているはずである。後は、自分に「関係性」があるものだけ、必要なものだけを、みんな覚えて無意識の中に格納して暮らしているのだと思う。つまり、「戒」と「律」という「ルール」の区別はあっても、私たちが「行為のルール」としているものは全て「無意識」の中に格納されたものだけである、とうことだ。やっぱり、誰も自分の行為についてはいちいち考えながらやることはほとんどなくて、「ルールの把握」と「ルールの創造」を行うとき以外、つまり「理性」が働いているとき以外は、全て無意識のうちに行っていると言って良いと思う。
 先進国にいる人たちと後進国にいる人たちでは、また都会に暮らしている人と田舎に暮らしている人とのあいだで、「新しいものや人や環境」との出会いの数が違っている。人間は、基本的に「新しいものや人や環境」との出会いの数だけ「ルールの把握」や「ルールの創造」が必要になるから、先進国にいる人、都会に暮らしている人の「理性」のほうが良く働いているということになる。また、自分の「行為のルール」を他者によって決められたり、慣習や習慣で埋め尽くされている人も、「理性」を使うことが少なくなる。「指示」や「命令」は「ルール」であって、それに従えばいいだけなのだから、そういう時には「理性」は働かないし、いつもお決まりのことをしているだけの人もまた同じである。
 
 次に、私たち人間の「理性」が他の生き物に比べて、どうして大きく突出したものであるのかについて考えてみよう。私たちも他の生き物も「ルールの把握」の方法の大半は、「見様見真似」と「躾」とか「訓練」であって、哺乳類ならばどの動物でも行っていることである。まぁ、把握しなくてはならないルールの数は先進国に住む現代人なら膨大だが、今から20年前のアフリカにいた「ミトコンドリア・イヴ」の頃の人類が、果たして他の動物よりも多くのルールを把握していたかどうかは、わからない。ただ、人類は樹上生活から脱却して、草原に下りて以来雑食性であったというから、食物に対する関心の幅は大きく広がり、その分だけ把握する「ルール」の数は多かったであろう。また、人間は、発情期を持たず多産であって、出産するにも子育てするにも他人の手を借りなければならなかったので、家族を越えた集団を作って暮らしていた。それに、肉食もしていたから、「狩猟」の方法という「ルール」もあって、人間の集団内の「ルール」の数は、ゴリラやチンパンジーよりも多かったのかも知れない。それにしても「人間」の「理性」がなぜこんなに突出しているのかについては、よくわからない。もちろん現在の進化論的には「突然変異と自然淘汰」であることに間違いないが、突出した「理性」を突然変異で手に入れたとしても、それが「環境適応」に結びつかなければ意味などないから、当然そこには「必然性」がなくてはならない。 そこで、あくまで私見ではあるが、このような仮説を立ててみた。私たち人間は知能の高い霊長類であったが、その中でも唯一集団で「狩猟」を行う動物であった。「狩猟」の効率を高めるためには仲間同士のコミュニケーションが必要となる。それゆえ人間には「言葉」を話す必要性があって、そして私たち人間が「言葉」を使えるようになったことが、突出した「理性」の原因だと思われる。イルカや鯨も知能の高い動物であり集団で「狩猟」を行うが、彼らも私たち同様「言葉」を持っている。だから、知能が高くて集団で狩猟を行う動物が「言葉」を必要とすることには、必然性がある。そして、それがたまたまこの地球上で最も知能の高い動物である私たちの手に入ったとき、私たちの「理性」は、突出し始めた。なぜなら、言葉は「ルール」を直接表現できるものであるからだ。 「ルール」は現象の中に隠れて絶対に直接見ることはできない。人間も動物もたくさんの「習性」や「本能」と呼ばれる「ルール」に従ってはいるが、それは「行動」や「行為」として表現されているだけである。そして動物の「ルールの把握」は全て、「見様見真似」は行動を真似することで、「躾」や「訓練」は「ボディランゲージ」で行われる。つまり、「ルール」を表現するには、自分の行動しかないわけである。当然「ルールの把握」も行動によって行われるだけなのである。だが、言葉は「ルール」そのものを相手に伝えることができる。「指示」や「命令」は言葉を使って直接「ルール」を伝えることである。人間が「言葉」を持つことで手に入れた最も大きな価値は、自分の行為や行動以外にも「ルール」を表現できるものを手に入れたことなのである。もちろん、言葉に遅れてはいるが「数学」も「ルール」を表現できるものだ。だから、私たち人間は「言葉」と「数学」という「ルール」を表現できるものを手に入れたことで、突出した「理性」を持つようになったのだ。決して見ることができず、現象の中に格納された「ルール」というものを表現できるものを手に入れたこと、それが人間の「理性」が突出した原因だと私は考える。物理学者は「宇宙」のルールを「数学」で表現し、技術者は「数学」を使ってモノを作るのである。それはまさに「ルール」を直接扱っているようなものなのだ。
 私たちは、「言葉」と「数学」を使って「ルール」を作り、その「ルール」に従って有形無形を問わず、この宇宙に新しい「構造」を構築しているのである。

 
 私は「理性」に対して「ルール全般に関する能力」というとても単純な定義を与えているから、「法治フィールド」であるこの宇宙では、これに勝る能力はないと思っている。「妥当なルール」に従って構築されたもの、「妥当なルール」に従って維持されているものは、「秩序」の高い状態にあって、それゆえ壊れる可能性を低く抑えることができると考えている。とはいえ、決して壊れないというわけではない。この宇宙(自然)は、詰まるところ「天体構造」と「生物構造」の二つしか構築できないが、両者ともに「誕生」があり「死」があり、その間の「寿命」というものがあるから、結局は壊れてしまうものである。だが、可能な限り壊れないようにするメカニズムが「法治」という方法なのである。実際、私のまわりにあるモノは本当に壊れない。メンテナンス(整備、保守)というルールをきちんと守ってあげると、実に壊れず、共に長くいてくれるものだと実感している。モノを大切にするとは、妥当なルールに従ってモノを扱ってあげることである。構築するためのルールは一回きりだが、維持するためのルールは継続することが必然的に求められるから、ずっと妥当なルールを守り続けてあげなくてはならない。そうすると、私自身の行為の自由が制限されるのであるが、そのことを知っている私は極端にモノを持っていない。モノが多くてメンテナンスにばかり時間を取られていては私の自由がなくなるからである。とはいえ、私の周りにいる人は非常にたくさんのモノをお持ちである。だが、それらの多くはほったらかしであって、持っているというだけで何の価値もなさそうである。「断捨離」と言って使わなくてほったらかしにしているモノを捨てるというのが今は大切なことらしい。なら、まだまだ続く人間や世界の未来のためにも、最初から買わないほうが良い。必要でないもの、共に長く在りたいと思わないものは手に入れなくても良い。「たかがモノ」ではない。この宇宙にあるのは、私たちと同じルールを守ってくれている「モノ」なのだから。

 さて、今度は私たち人間の「理性」は、私たちのこの世界に対しては何ができるか、について考えてみようと思う。「理性」にできることの一般論は「ルールの把握」と「ルールの創造」であった。私たちは、多くのルールを把握して行為し、創造した多くのルールに従って有形無形のものを作り上げている。そしてそれが、私たちの今いる世界なのである。では、私たちの「理性」は「把握するルール」や「創造するルール」そのものについて、何かできるのであろうか。つまり、私たちの「理性」は「ルール」そのものの内容や質について、何か要請しているのかということだ。先に私は、「私たちの理性は、どんなルールも法則と呼ぶにふさわしいものであることを要請するし、一つの体系の中にあるルールが無矛盾であることも要請する。」と述べた。だが、それはどうも疑わしいのかも知れない。何故なら、「ルールの法則性」と「ルールの無矛盾性」を求める人の数は、圧倒的に少ないからである。全く普通に生きている人のほとんどは、ルールにこう言うものを求めたりはしない。だが、誰でも「ルール」の違いには敏感である。自分が身につけた「ルール」と異なる「ルール」で暮らしている人はすぐにわかる。自分が知っている「ルール」では、起こりそうにもないことが起こると、人にはすぐにわかる。誰でもが、自分の身につけた「ルール」を物差しとして、相手や対象を計ることはすぐにできることなのである。だから、他国や自分が暮らしているところから別の地方へ旅をしたら、人の「行為のルール」の違いには驚いて、どこへ行っても「カルチャーショック」というものを少なからず受けるものなのである。でも、どうやらほとんどの人が、自分が住んでいるところで身につけた「ルール」は常に「正しい」と思っているようである。誰がどこで身につけた「ルール」であっても、自分の身につけた「ルール」はいつも正しいと思っているようなのだ。私は、人が身につけた「ルール」のほとんどが、「独善的」「局所的」であって、「法則性」には非常に乏しいと感じている。だが、それは私自身の「理性」が私の「行為のルール」に対して「法則性」を要請しているからであって、私以外の人の「理性」は、自分が「把握するルール」自分が「創造するルール」に対して、「法則性」や「無矛盾性」を要請してはいないようなのである。
 この「理性」の違いは、いったいどこから来ているのであろうか? カント先生は「理性」そのものの「実在性」を訴えた。それは、私たちのあらゆる「経験」を全部無視したとしても、私たち人間が「為すべきこと」と「為すべきでないこと」の区別はできることを「理性」に求めたからであり、そういうものがあることをもって「理性」の「実在性」を説いたのである。つまり「道徳」という私たちの「行為のルール」を「制限するルール」は、私たちの経験上生まれたものではなく、元々「理性」のうちに在るものだということだ。そしてカント先生は「理性」の内にあって「道徳」の根源となる「ルール」についてこのように述べた「私の格律(行為のルール)が普遍的法則となるべきことを私もまた欲し得るように行動し、それ以外の行動を決して取るべきではない。」と。
 私もこれと同じルールに従って自分の「行為のルール」を制限しているのだが、私は物理学を通して「星の世界のルール」がどんなものであるかを把握したから、自分の「行為のルール」もそれと同じようにしようと思っただけなのだ。「物理法則」という「星の世界のルール」が、私の「理」に適っていることを知って、私はこの宇宙がとても「素晴らしいフィールド」だと思い、涙が出るほどうれしかったのである。「ルール」そのものに誤りがあれば、この宇宙というフィールドが素晴らしい場所であることは絶対にないが、とにもかくにも星の世界を作る「物理法則」の中にあるルールは、その全てが最高のルール、最上等のルールである「法則」と呼ばれるものであり、それは「絶対性」と「普遍性」を備えていて、ひとつの例外も持っておらず、ひとつの特権も与えておらず、ルールのお目こぼしも全くないという「ルール」であること、そしてそんな「ルール」の全てがルール同士の整合性のある「無矛盾なルールの体系」を構築していて、それで出来上がっているのが「星の世界」、つまりこの「宇宙」なのである。全くもって、こんなに素晴らしいことはない。全く完全なルールで構築された世界が、私たちが今いる世界なのだから、こんな喜ばしいことはないではないか。
 とはいえ、そういう世界には、全くふさわしくない「人間」という「理性」を持った生き物がいるので、そうそう単純には喜んでいられないのではあるが。



 最後に、私たちの「理性」が、私たちのより良き未来を構築するのに役に立つか、あるいは私たちを正しい方向に導くことが可能であるかについて、語ってみたい。
 「理性」を一般的に使用して、「ルールの把握」と「ルールの創造」を行うことは、全く普通に生きている人ならば少なからず行うことである。だから、科学者はこれかもまだまだ自然の中にある「新しいルール」の把握に務めるであろうし、技術者は発見された「新しいルール」を「応用したルール」を創造して、「新しいモノ」をたくさん作るであろう。だから、「科学技術」はまだまだ進歩するから、便利なモノ機能的なモノなど人の暮らしに役立つモノはこれからもたくさん生まれてくるであろう。その反面、人間そのものを進歩させること、進化させることには、今までどのような方法も全てうまくはいかなかった。ソクラテス戦士がいた2千数百年前のギリシャ時代以来、今でも人は「良き人間」にはなろうとせず、「権力」や「富」や「名声」など「力」の獲得にあくせくしているのである。「理性」は人間の中にある、この数億年前から身につけている「群れをなす動物の習性」を駆逐できるであろうか。「理性」は本来「ルール」全般に関する能力であって、その能力を文字通りに使用すれば、「妥当なルール」の敷設のみに使用すべきものである。「理性」を用いて「力」の獲得に走るのではなく、「理性」を用いて「良きルール」を作るのが「理性」本来の使用法だと思う。スターウォーズという映画には「理力」の暗黒面に落ちた「理性的存在者」と、「理力」を光り輝くものそのままに使用する「理性的存在者」の戦いが描かれている。「理性」を「力」の獲得に使用し、獲得した「力」で「歪んだルール」を「帝国」にいるもの全てに押し付けるものが「ダース・シディアス卿」や「ダースベーダー」であり、「妥当なルール」の敷設と「ルールを尊重する」ことのみに「理性」を使用するのが「ルーク・スカイウォ−カー」などの「ジェダイの騎士」である。全世界の人が、この映画を一度は見たであろうが、彼らはどんな気持ちでこの映画を見ていたのであろう? 「正義」は世界中の人にも理解できるものだと思うのだが、なぜ、誰も自分自身の行為についての「正義」は求めないのであろうか? 自分が「把握したルール」は全て正しいと思い、周りの人と同じようにしている「ルール」も全て正しいと思い、自分と異なるルールに従っている人を悪だと決め付けて生きている人が余りに多いのはなぜであろう。なぜ、多くの人の「理性」は、自分自身の「行為のルール」に「法則性」と「無矛盾性」を求めないのであろう。 
 
 私の「理性」はこの件に関しては「黙秘」したままである。だから、私たち人間の「理性」が、私たちのより良き未来を構築するのに役に立つか、あるいは私たちを正しい方向に導くことが可能であるかについては、私自身は何とも言えない。ゴーダマやイエス様といった、おそらくは「ルールを尊重」することをさとしにこられたであろう偉大な聖人でさえ、周りにいる人の「理性」はいともたやすく「力の象徴」に変えてしまったのであるから。
 
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