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   V 私たちが為すべきこと  
     
   6. 宇宙で起こる全ての「現象」を表すグラフ
                「マックスウェル・ボルツマン分布」(2)
 
   さて、マックスウェル・ボルツマン分布のグラフに少し変更を加えてみた。三つの色に分けることで「現象」の起こる頻度がよりわかりやすいようにしてある。また、縦軸と横軸の「項目」を変えてみた。このグラフは「面積」を見るグラフなので、赤い線と水平の基底軸に囲まれた、それぞれの色の面積が「現象」の起こる頻度を表している。縦軸は「現象の起こる頻度」であるし、中央の縦軸は、「最も平均的な現象」を表している。だから水色は総じて「平均的な現象」、緑は「好ましい現象」ピンクは「好ましくない現象」である。比較すべきはその面積だから、こうやってみると、そのほとんどが「平均的な現象」であることがわかる。とは言え、同じ「平均的な現象」でも「好ましい方」と「好ましくない方」では、差があるように思われるかもしれないが。
 まぁ、でもとにかく、この宇宙で起こることのほとんどは、「平均的な現象」であって、いいことも悪いことも、そうそう起こるものではない。それに、この分布は「時間変化」に対しても成り立つ。そしてそのことをもっとわかりやすくしたのが、左のグラフである。ちょっとした数学的な操作を加えるとマックスウェル・ボルツマン分布のグラフはこのようになるのであるが、これって良く見かけるグラフだろう。そう、「バイオリズム」であれ、「四柱推命」や「星座占い」など時間的な循環を表す「周期性」を持つ現象のグラフである。みなさんの一生を見ると、「好ましい」状態にある時間、「好ましくない」状態にいる時間もあるが、ほとんどの時間は「平均的」な状態、つまり「全く平凡」な状態にいることを表しているのである。「全く平凡」な状態というのは、喜ばしいことも全く起きていないが、かといって苦になるようなことも全く起きてはいない状態だ。そして、本当ならば、人として生きる誰もが、1日を全体としても、1月を全体としても、1年を全体としても、そして一生についても、この三つの状態の行き来を繰り返しているはずなのである。
 自然が起こす「現象」の多くには「周期性」というものがある。たいていの現象は、「急に」ではなく「徐々に」変化してゆくように見える。だが、本来個々の「気体分子」の「速度」や「運動」には「周期性」などない。「個々」の気体分子の運動は、「デタラメ」であって、どこにも「ルール」なんか見いだせないのだから、「周期性」なんかあるわけないのである。だが、「BM分布」は、「個々」ではなく「全体」として観察したら見えてくる「ルール」なのだから、「周期性」も「全体」としてだけ現れる「ルール」なのである。だから、「バイオリズム」も「四柱推命」も「星座占い」も全くデタラメというわけではないかもしれないが、これもまた大勢の人を「全体」として観察したら見えてくる「ルール」であるから、そういうものを「個々」の人間に当てはめても、当たり外れは当然出てくるであろう。まぁ「占い」の話だから、深く追求する必要もないが、みなさんは、これだけは知っておくべきである。
 「BM分布」が表しているのは、「個々の気体分子の運動を観察」したら、何の「ルール」も見いだせないにも関わらず「全体」として観察したら、このグラフのような「相関」が現れることである。つまり「ルール」が現れて来るのである。どんな「ルール」かといえば「最も平均的な「現象」が最も数多く起こり、平均からずれるようなことは、平均からずれればずれるほどその数は少なくなり、平均から遠く離れたような「現象」も、数は少ないが起こらないわけではない。」という「ルール」である。だがやっぱり一つ一つの分子について言えば、何が原因で右端へ行き、何が原因で左端へ行き、何が原因で真ん中あたりにいるかについては、「ルール」がない。つまり「因果」はないのである。
 さて、このことをみなさんご自身に当てはめていただきたい。みなさんは、人間特有の「因果」、つまり「個々」の人間ひとりひとりについての「因果」(「因果」と「ルール」は同じことなのをお忘れなきように。)を信じておられる。「善因善果、悪因悪果」は「個人的」に適用される「ルール」である。前にも話したが、「人間特有の因果」を持ち込むと、それは途端に「不条理」になってしまう。「宗教」も「神秘主義」もその多くが「人間特有」の個人的な「因果」をたくさん持っているのだが、私は、このようなものを全く信じていないのである。「善因善果、悪因悪果」は個人的に適用できるような「ルール」ではなく、「全体」としてみたら見えてくる「ルール」かも知れない。だから、もし、そのような「全体」にある「ルール」を「個人」に適用するときには必ず、「確率」というものを持ち込まなければならない。「良い行い」をすると「良い結果」が得られる確率は高くなるかもしれないが、絶対に「良い結果」になるとは言えない、ということなのだ。「努力」についても「才能」や「資質」についても同じである。努力することで、あるいは才能や資質があることで、目的を達成する「確率」は高くなるかもしれないが、努力したら、あるいは才能や資質があるから、必ず目的を達成できるとは言えない、ということなのである。それに、どう考えても、宗教や神秘主義者の個人的な「因果説」は、私には納得がいかないのだ。先の東北大震災でお亡くなりになった方は、みな「悪因」をお持ちだったのであろうか? 人が、自然災害や、不治の病や、犯罪や事故に巻き込まれたりなど、不慮の死を遂げられたら、また、死や傷病に関係なく、「不幸」に見舞われたら、それらは全部「悪因」のせいなのだろうか? そう言っておけば、「宗教」も「神秘主義」も儲かるであろうが、私には、そういうものの全てが「偶然」であるとしか思えないのである。「ツナミ」でお亡くなりになった方々はみな、「自然」の「ルール」の平等性が、無差別に「死」をもたらしたとしか思えない。自然の大きな「力」が、人も生き物もモノも、無差別に、そして強引に「物理的」な「ルール」に従わせただけだと思う。そして、私はこの宇宙(自然)にある「ルール」の平等性は、「私たちの行為」の違いぐらいでは「特権」を与えないことを痛感するのだが。
 私自身は、この宇宙では、「個々に起きる現象」「個々にある存在」については「全て偶然」である。「デタラメ」であって「何の因果」もない、と考える。ただし、「全体」としては、「ルール」が現れるので、「因果」はあって、良いことも悪いことも、起こることの全てが「必然」であると考える。

 一般的な言い方をすると、この宇宙では「部分」であるものに着目して観察したら、「偶然性」しか見えてこない。「部分」であるものを集めて「全体」として観察したら、「必然性」が現れる、ということなのである。太陽の質量がなぜ2×10の30乗kgで、およそ100億年の寿命を持つ星であるのか? 太陽から地球までの距離がなぜ149,597,870,700mであるのか? 地球の質量がなぜ5.974×10の24乗kgで、地球の衛星はなぜたった一つ「月」だけであり、そこまでの距離が38万kmなのか? 今挙げたことは全て、私たちがこの地球に存在するようになるためには必要なことである。だが、こうなったことには何の「因果」もない。何の「ルール」も見いだせないのである。ただし、私たちのいる銀河の中にはおよそ2千億個の恒星がある。その全てを全体として観察したら「ルール」は見えてくる。つまり「因果」はある。太陽も地球も「自分の処遇」なんて気にはしていないから、「因果」を求めたりはしないだろうが、もし太陽や地球が「私たちが、その身を削り光を発し、大地を温めて生物が生まれる安定した環境を整え、それを46億年もずっと続けてきたのに、それによって生まれ育まれた「生き物」や「自然」を身も蓋もなく破壊し、世界の「王」の如き横暴な振舞いをする「人間」が生まれたのはどうしてだろう?」と問われたら、みなさんはどうお答えになるつもりであろうか? 太陽と地球に向かって「あなた方の前世の行いが悪いからだ。」とでも言うおつもりか。私たち人間がこの地球にいて、文明を発祥し、多くの文化を築きながら今もこうしていることも、「個々の現象」として捉えたら、何の「因果」もないのである。ただ、全体として捉えたら「ドレイク方程式」という「ルール」に従って私たちのような「知的生命」が生まれてくる、と言われている。別にみなさんが自分勝手に「因果」を知りたいという欲望にケチをつけるつもりはないし、「神秘主義者」や「宗教家」が、みなさん一人一人の「因果」について語ることが「詐欺」であるとも言うつもりはない。ただし、それに拘泥して、本当に為さねばならないことをお忘れにならないで欲しいのである。



 みなさんが生きているこの世界は、「個々」に起きることについては「ランダム」である。だが、「全体」として見れば「ルール」が見えてくる、みなさんはそういう世界に生きているのである。
 
 一人一人の人生を、横並びに観察したとしよう。人間一人一人の人生に着目して「幸福」かどうかを調べてみるのである。だが、私は幸福を測る物差しを持っていないので、調べることができない。でも、実は「幸福」の物差しはこの世界にいる誰一人として持ってはいないし、原理的に持てないのである。誰のどの人生が幸福であるとか、そんなことは元々「個々に生きる人間」には「ルール」を見いだせないので、「物差し」は持てないものなのである。「個々に起きる現象」「個々にある存在」については「全て偶然」であるのだから、「ルール」はない。そして、「ルール」がないので「基準」や「物差し」もないというわけなのである。もし、それでも何かしら「ルール」をあてがって測りたいというのであれば、「全体」を観察することによって見えてきた「ルール」をあてがう他はない。だが、これは「全体」を観察して得られたルールなので、全員が当てはまる。つまり、人間の「幸福」は世界中の人が皆同じだというわけである。しかし、こう言っても誰も納得はしないであろう。実際に、みなさんは、自分よりも「幸福」な人をたくさん知っているとおっしゃるであろうし、自分より「不幸」な人もたくさん知っているとおっしゃるであろう。そうなのだ。そうやって「幸福」に関しては、「自分」を基準にした「物差し」しか誰も持てないのである。だが、「自分の物差し」など、全くあてにはならないではないか? 「自分の物差し」でものを見ることを、「偏見」や「臆見」と言うのだから。

 「全体」として観察した時に見えてくる「ルール」を「統計則」「経験則」と言う。「幸福」を測る「物差し」があるとしたら、それは「統計則」や「経験則」でしかない。そして、そういう「物差し」ならば、個人の幸福は測れないが、より大きな「全体」の幸福は測ることができるのである。私たちは「ルール」を言葉や数式で表現できるから、どこかの誰かが、その「全体的な幸福」の「基準」について語っても良いようなものであるが、誰もそんな「基準」については語っておられない。だから、今はまだ誰も彼もが「物差し」を持たずに「幸福」を求めているのである。どうあればいいか、何を得たらよいか、終着点がどこか、など何も分かっていないので、あてどもなく彷徨っているのである。「物差し」を持たないのに、「幸福」を求め続けるその行為そのものが「ルール」がないので「闇雲」であり「デタラメ」なものである。とは言え、多くの人には自分の行為を「デタラメ」から開放してくれる体のいい「ルール」がある。それは「力」の獲得の度合いを「幸福」の度合いに置き換えることだ。だから、多くのお金を儲けることは「幸福」だし、多くの人の評判を集めることは「幸福」だし、大きな権力を持つことも「幸福」なのである。だが、「力」を得るには、この宇宙で最も大切な「ルールの平等性」に違反しないと得られないし、また「力」は決して持続性のある「幸福」をもたらさない。それに「勝負」に勝っても負けても、「人」と「人」との「関係性」(つながり)を切り刻んで、「他者化」を推し進める。そして少ない数の「個人」は似非「幸福」を得られて満足するかもしれないが、より大きな「全体」、例えば「全国民」とは「全人類」とかはどんどん「不幸」になってゆくのである。「全体」を「不幸」にするのは「歪んだルール」である。私たち人間の中にある動物の習性がもたらす「不平等なルール」が、結局「全体」を不幸にして行くのである。
 
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