V 私たちが為すべきこと  
     
   8. 終わりに  
   宇宙というフィールドは、とても良く出来たフィールドである。細部に渡るまで検証したところ、ただ一つを除いては、これといって欠点らしいものは見当たらない。私たちが経験する世界で起こる現実的な「現象」がどうであれ、この宇宙の「ルール」はとても良くできている。スポーツにしてもゲームにしても「ルール」がうまく作られていないと、スポーツにもゲームにもならないこともあるし、また余りに単純なルールではすぐに飽きてしまうようなこともある。その点この宇宙の「ルール」はとても良く出来ている。全てが「全く差異のない完全に同じもの」で出来ていて、全てがそこから発生しているにもかかわらず、これだけ多様性に富んだ「現象」と「存在」を構築できている。しかもその全てが、「神秘」と「不思議」と「感動」とが混ざり合っているものだし、その全てに「美しさ」が伴われている。 それゆえ、私たちが経験する現実の全ては、まるで「魔法」の世界であるかのようだ。見てごらん! 星の世界の美しさを! 見てごらん! 生き物の世界の美しさを! 機能といい、構造といい、構成といい、何をとっても「自然」は素晴らしさに溢れている。こんな「世界」を作ることができるのが、この宇宙の「ルール」なのである。この宇宙の「ルール」は本当に素晴らしいものなのだ。
 人が争うのは、私たちの「ルール」が間違っているせいである。人の世界が「繋がり」のない「他者」ばかりなのは、私たちの「ルール」が間違っているからである。他には、何の理由もない。間違った「ルール」で構築したものだから、いつまでたってもトラブルが絶えないし、ちっとも安定しないのである。そして、そんな間違いだらけの「ルール」を公然と作ることができるほどに、私たちは「無知」なのである。いいや、正確には私たちはみな「理性」を行使することを恐れて、「無知を装っている」だけだ。なぜなら、無知ならば、他者の真似が許されるからだ。自らの行為が不当であることの弁明に、「誰もがやっているから」という「無知」ならではの言い訳が通用するのである。どこかの企業のCEOに「あなたの9億を超える年収は、妥当なものですか?」と聞いたら、彼は「コンサルタントが決めたから」だと答えた。自ら「理性」が備わっていて、それを大いに利用することで、傾いた大企業を立て直したにも関わらず、そんな優秀な彼とて、「理性」を自らの行為のルールには決して向けようとせず、「他者」に言われたからという自らの「無知」を装ったのである。人は「後ろめたさ」を背負うとき、つまり、内なる「理性」の批判を我が身に浴びるとき、「みんなやっているから」と「関係がない」というセリフを使う。我が身のうちの「理性」に従わず、「野生」に下った人には、そう言い訳するしかないのである。
 人は「自然のルール」も自ら構築したルールも言葉や数式で表現できる生き物である。そして、「理性」を用いれば、それらのルールを簡単に評価することもできる。誰でもが、「ルールが法則と呼ぶにふさわしいものであること」「ルールが無矛盾であること」そして、「ルールが平等性を有していること」など、ごくごく当たり前にルールがどうあるべきかについてはわかっているはずだ。それに、「ルール」の本質について考えれば、元来「ルール」というものは、それを遵守しているもの全てに、利益が与えられなくてはならないはずである。どんな利益かといえば、「安全」に「安定」して「安心」して存在することができること、という利益である。「ルール」をずっと遵守している者が、何故、自ら存在することさえままならないのであろうか? 上司の「オーダー」というルールを頑なに守り続けて、権力の要請というルールにも応え続けて、日々の暮らしを「ルーティン(お決まりの仕事)」で埋め尽くした人たちが、なにゆえ、「ルール」を守ることの利益を享受できないのであろうか。一体どこの誰が、彼らが「ルール」を守ることで享受すべき利益を掠め取っているのであろうか。「安心」や「安定」を得るのに、「ルール」を遵守する以外に方法がないこの宇宙で、「正直者はバカを見る」のはどうしてだろう。それゆえ、誰も「ルールを尊重」しなくなっても誰が彼らを責めることができようか! 国法を重んじ、国家を尊重して、毒杯を飲み干したソクラテスは、アテナイの市民に対してこう言った。

「好き友よ、人間でありながら、最も偉大にしてかつその智慧と偉力との故にその名高き星の民でありながら、出来得る限り多量の蓄財や、また名聞や栄誉のことのみを念じて、かえって、智見や真理やまた自分の霊魂を出来得る限り善くすることなどについては、少しも気にもかけず、心を用いもせぬことを、君は恥辱とは思わないのか。」

 だが、もっともらしい言葉を吐いたソクラテスは、古代ギリシャの時代から現在に至るまでずっと「正直者」であり、「馬鹿」を見たままなのである。

 人は、「宇宙の存在」である。この宇宙は「法治フィールド」であるのだから、この宇宙にあるものは全て「ルールを尊重」しないことなど本来有り得ないのだ。だから、「たかがモノ」は「物理法則」を頑なに遵守しているし、人間以外の生き物は、「習性」や「本能」を頑なに守り続けている。自ら「ルール」を変えることができないから、遵守するほかはないのかも知れないが、それでも、ずっと同じ振る舞いをしてくれていることで、「他者」への「配慮」は万全である。ずっと同じ振る舞いだからこそ、周りのものには彼らの行動や変化の「予測」が可能であり、それゆえいつも事前に、予防的に「対処」できるのである。だが、人は違う。人だけは、いつルールを変えるのか、誰にもわからない。誰も彼もが自分の都合でルールを守るし、自分の都合で変えてしまうのである。全ては「自分の都合」次第である。誰も自ら進んで守る「妥当なルール」など、持ってはいない。自分の行為のルールの妥当性など、誰も測ってみたこともなければ、測るための物差しさえ持っていない。ただただ人は、無意識のうちに、無意識の中に格納された自らの「行為のルール」を、無意識に実行しているだけである。自らの行為のルールが妥当であるかどうかの判断は、「理性」だけがそれを行える。この宇宙を作り、導いてきたのと同じ「理性」だけが、自らの行為の評価を下す。人は「理性」があるがゆえに「ルール」そのものを直接扱える。それゆえ人は、他の生き物からも区別されるし、これほど創造的な世界を構築してきた。だが、その「理性」を「自らの行為のルール」だけには向けないから、人間の作ったモノは進化し続けてきたのに、自らは「野生」のままなのである。「力」の獲得、「力」の決着、「力」の順位、それがどんな力であっても、ほんのわずかでも人より大きければ、「有利なルール」の下で生きてゆける、という動物の「習性」を持って生きているならば、それは「野生」丸出しである。「理性」を自分以外のものに向けて、どんなにうまく活用し、「力」の獲得に励んでも結局は狡猾な「サル」のままであって、決して「人」ではない。人の「理性」は「ルール」そのものを尊重するものである。「力」の多寡によって「ルール」が歪むことを見逃したりはしないし、「力」の多寡によって歪んだ「ルール」を平気で押し付けるような人間を、堂々と軽蔑するのである。財力があろうが、権力があろうが、GNPが上位であろうが、「ルールを尊重」しない人も国も、「理性」は決して尊敬したりはしないのだ。なぜなら、そう言う人も国もこの宇宙には全くふさわしくない。「法則性」と「無矛盾性」を備えた素晴らしいルールである「自然のルール」を構築してきたこの宇宙には全くふさわしくないのである。人がいくら無知で傲慢なお山の大将であっても、また矛盾に満ちた「人の神」など恐れぬ「理性」の持ち主であっても、「宇宙」には勝てはしないし、「宇宙」を無視することなどできるはずがない。「妥当なルール」で構築され、この星に生きる全ての生き物にとって、父なる「太陽」と母なる「地球」に対してさえも「特別扱い」もしなければ「特権」も与えないこの「宇宙」の中で、「歪んだルール」「特別と特権だらけのルール」を公然と敷設し、「ルールのお目こぼし」と「ルールの逸脱」を平気で行う人間が、ふさわしいわけがないではないか。この世界で人だけが「ルールを尊重」していないたった一つの存在である。この世界で人だけが、「共にあろうとすること」のない「他者」、お互いに「ルール」を守る気にもなれない「他者」を平気で作り、「他者」だらけの世界で生きているたった一つの存在である。
 この世界に大切なものは、自分の愛する者だけなのか! この世界に大切なものは、自分の「家族」だけなのか! この世界に大切なものは「自分の国」だけなのか! この世界に大切なものは、「自分の会社」だけなのか! この世界に大切なものは、「自分が所有するモノ」だけなのか! 「自分と関わる者」と「自分の利益に関わるもの」、それ以外のものは一切関係がない「他」であって、何のルールも守る気にもなれないというのだろうか! 壊れても傷ついても良いというのだろうか! 
 考え直した方が良いのではないだろうか。自分の「力」の獲得に勤しんで「有利なルール」を押し付けて「他者」をたくさん作ることよりも、「共にあること」「仲良くあること」を一番に考えて、「自分」のために自ら進んで「ルール」を守ってくれる人をたくさん作ったほうが良いのではないか? 「力」から「ルール」へと、考え方の根本をシフトなさった方が良いのではないか。大きな「力」を獲得して、束の間「有利なルール」で「いい思い」を味わっても、それは決して長くは続かない。負ければ、今度は「不利なルール」で生きてゆくことを強いられる。そんな「メタ・ルール」で「安定」や「安心」は得られるのだろうか? 競争に勝って「力」を獲得してゆくたびに「友」を「他者」にしてしまい、結局は自分を大切に思ってくれる人が全くいないことに気づく人は大勢いるのだが、それならば、負けて「友」が「友」のままでいるほうが良いのではないか? あなたの子供や子孫たちが「力」を獲得できるとは限らないのだから、「力」の多寡によって「歪んだルール」を押し付け合う社会よりも、「才能」がなくても人には大切にされ、「権力」も「財力」もなくてもみんなに大切にされる社会を作った方が良いのではないか? 自分自身を粗末に扱うものが一人もいない世界にしたほうが良いのではないか? 
 
 私の世界には「他者」がいない。私の世界は直径930億光年の球形の空間と、遡って137億年、未来に向けて数千億年から数兆年の時間の中にあるのだが、そんな時空の全ての中に「他者」はいないのである。したがって大切に扱わないで良いものも何一つない。すべての存在は「妥当なルール」に従って扱わなければならないものばかりである。何故なら、「妥当なルール」を守ってあげないと壊れたり傷ついたり、ときには死んでしまうこともあるものばかりだからである。だから、私は自ら進んで「共にできるだけ長くあるために」ルールは守らなければならないのである。だから私はいつも考える。どうやったら、この人と「いつまでも仲良く」共にいることができるかということを。どうやったら、このモノと「いつまでも長く」共にいることができるかということを。そして「ルール」を見つけ出して、誰かに押し付けられるのでものなく、自ら進んで遵守するのである。夫婦のあいだで、親子の間で、すべての人間関係のあいだで、また国家や地域や民族の間で、いつもいつもお互いに考えるべきは、「どんなルールを守ればお互いに共に長くあることができるだろうか?」ということであり、それを求めた時に初めて(ルール全般に関する能力である)「理性」が働くのである。その時初めて人は、「理性」をこの宇宙にふさわしく使うのである。どうなったって構わないと思っているものの間に「ルール」は必要ない。そして、そういう相手のときには「理性」ではなく「狡猾な知性」が働いて、「一方に有利なルール」を勝ち取ろうとするのである。「一方に有利なルール」には、「ルール」本来の価値がない。お互いに守っているのに、片側の暮らしだけが良くなる、安定するなんて言うのは、まともな「ルール」ではない。ルールはそれを遵守している者全てに平等の利益をもたらさなければならない、このことはまともなルールなら当たり前に要求されるものである。この世界に暮らす人の多くが、「貧しさ」からも「危険」からも、それゆえの「不安定」からも脱することができないのは、彼らの「力」が弱く「一方的に不利なルール」を「力」の強い者や国家に押し付けられているからではないか? 先進国でも、「子供を安心して育てる気にもなれない」のは、いつもいつも「競争」にさらされて、その勝ち負けで「歪んだルール」の押し付け合いをしなくてはならないからではないか? 「共にあろうとするもの」のあいだでは「ルール」は必ず「妥当」ものであるはずだ。どちらかが一方的に有利なルールを「共にあろうとするもの」との間に掛けたりはしないはずである。「不平等なルール」で繋がれた関係の中には、結局「他者」という結び付きのない関係、全く何とも思わなくて、ルールなど一切生じるわけがない関係しかない。それゆえ世界には70億の人間がいても「みんなそれぞれに他人」なのである。私たちがすべての人間の間に、お互いに尊重すべきだと思えるような「妥当なルール」を敷設するまで、「他者」は生まれ続けて、人は人との「関係性」を失い続けるのである。そして、誰も「自分」を大切に思ってくれる人がいなくなる。大切だからという理由で「ルール」を自ら進んで遵守してくれる人は世界からいなくなるのである。
 この宇宙にあるものの「関係性」は「物理法則」というルールによって、全時空において確保されている。全く関係がないものは、この宇宙にはたったの一つもないのである。だから、この宇宙にあるものは全て、お互いに壊しあったり、傷つけあったりすることができる。この宇宙にあるものすべてが、そういう関係だからこそ、「ルール」によって、全てのものが制限を受けているのである。傷つけ合ったりできることが確実である人間同士が、「他人」や「他者」という「関係」であり、お互いに「ルール」を尊重する気にもなれず、誰が傷ついても死んでもなんとも思わない間柄であることを、恐ろしく、そして悲しく思っていただきたい。そして、世界にいる70億の人間の中で、私とほんのわずかな人だけが、「力」の獲得をやめて「ルールを尊重」することで「他者」のいない世界に住んでいること、この宇宙の中にはたったの一つも「排除」や「破壊」すべきものはなく、どんなものとも「共にあること」のために、いつもいつも妥当なルールについて考え、自らそれを遵守して生きていること、「友」しかいない世界に住んでいることを思っていただきたいのである。みなさんも、世界のすべてが「大切」に思えれば、世界は「友」だけになる。そして「友」と「共に長くあるために」自ら進んで「妥当なルール」を遵守なさることであろう。
 そういう生き方こそが、この宇宙にはふさわしいのである。
 人よ、人をやめてはいかがかな? そうして、「宇宙の理性的存在者」になられた方が、この先数多ある「生」と永遠の命のためにも、とても賢明なことだと思うのだが。
 
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