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   T 信仰と宗教について  
     
   2. 信仰について  
    私は、信仰を持ちたいと思ったのだが持てなかった。だから、未だに人がどうして信仰を持つのかは良くはわからない。良くわからないことは探求すべきことでもある。だから私は、信仰をお持ちになる人に直接会って、なぜ「信仰」をお持ちになるのか、と聞ければ、それが一番手っ取り早い。そう思い、身近な人で信仰をお持ちの方を探してみたのだが、これがさっぱり見つからない。まぁいい、人探しは諦めて、とりあえず文献をあたろうと思って、探求したら、私たちの国では、西洋やイスラム社会的な「信仰」を持つ人はほとんどいないということがわかった。私たちの国では、「経典」や「教典」のある「教義宗教」を「教義宗教」らしく信仰している人はほとんどいなくて、例え「教義宗教」であっても、「祭祀と儀礼」のみを慣習として行うこと、それが信仰することだと思っているというか、それが私たちの国流の「信仰」なのである。なるほど、それで私の母は、毎日仏壇にお花を飾り、お茶とお菓子を備え、手を合わせ、般若心経を唱えることはしても、仏教の経典やその解説書を読んで理解しようなどとは全く思わなかったのだな、と納得した。私たちの国の宗教は、元来「祭祀宗教」と呼ばれるもので、教義を持たない祭祀と儀礼だけの宗教であった。人々は、神を祀ることで、自然の脅威を治めてもらうこと、実りの多い年にしてもらうこと、災難を避けてもらうことなどを、ひたすら「神頼み」したのである。そうして送った一年が、実りが多くて災難のない年であったなら神に感謝し、そうでなかったのなら、前年にもましてねんごろに神を祀ったのである。だから、「信仰」とはいえ、これは明らかに西洋的なそれとは異なる。だから、普段の生活においては、信仰を持てなかった私と母の間には、何の違いもないのである。
 ある時、私は二人のキリスト教系の団体の信者さんに会うことができた。彼らは仕事が終われば毎日のように教会に集まって聖書の勉強をするというので、これは、ちゃんとしたことが聞けると思って、失礼を承知の上で尋ねてみた。「お二人は、どうして信仰をお持ちになったの?」「母が信者だから。」全く拍子抜けではあったが、至極妥当な、ごくごく一般的な答えであろう。世界に大勢いるキリスト教徒もイスラム教徒も、家族がみんな信仰を持っていて、子供が生まれて物心着く頃にはもうどっぷりとその世界に脚を浸けているのだから、今更「なぜ信仰をお持ちなのか?」などと問う事の方が愚かと言うことだ。キリスト教徒やイスラム教徒にとって、信仰を持つことは言葉を覚えるのと同じようなことなのだから。
 それにつけても、そもそも人が信仰を持つことの意味や意義とは何なのであろうか? 人間にとって、なぜ信仰が必要なのだろう? 全く普通に、可能な限り偏見を持たずに純粋に考えても、私には本当に良くはわからない。本当に何のためであろうか?
 「信仰」は動物の習性の中にはない。そのようなものを持っているのは人間だけだ。ということは、信仰は人間の手によって生まれたものであるか、神によって人にのみもたらされたものであるか? のどちらかだが、元々国や地域によって信仰には大きな違いがあったから、神によってもたらされた、ということはないであろう。ということは、おそらく人が作り出したものだと思えるが、それなら、必ず目的があるはずだ。人が何の目的もなく何かを作ることなどありえないのだから。
 信仰の原初の形とされているアニミズムは、自然の中にある神秘の全てを対象に、人が驚きの感情を抱いたことに始まる。美しい花々、個性的な形や色を持った昆虫や動物たち、巨木が織り成す森の深遠さ、湧き出る清水の美しさ、種から芽が出ることの不思議、蛹から蝶が生まれることの不思議、轟く雷鳴、大地を揺らす地震、何でもかんでもに神秘を感じ、驚きと畏怖や畏敬の念を抱くのは無理のないことである。そこに「神」を見つけることも、またやぶさかではない。現代に生きる私でさえも、自然の神秘には「神」を感じるからだ。アニミズムにおいて、自然の神秘は人に畏怖や畏敬の念をもたらしていたから、自分が恐れる対象そのものに「力」を感じ、その「力」を我がものにしたいと思うこともまた自然であると思う。人は強い動物に憧れ、自然の持つ「強さ」や「力」というものに憧れて、祈ること、祀ることでその力のおすそ分けを手に入れようとしたのだろう。それゆえ、ある宗教学者は、人が信仰を持つのは「現世利益(ご利益=ごりやく)」のためだという。自然から、神や仏に祈る対象が変わっても、人が欲しているのは彼らの「力」のおこぼれなのであろう。
 また、全く別の観点から、人が常に不完全なものであり、死すべき運命にあることが信仰の原因であることを指摘する人たちもいる。人は誰でも自分が不完全であることを知っているから、どうしても神や仏の完全さに憧れを持ってしまう、それが信仰を生むのだという。また、人は自分が死すべき運命にあることを知っているから、どうしても神や仏といった永遠であるものに憧れてしまう、それが信仰を生むのだという。
 でも、そうなると、神や仏は人間の憧れが作り出した、ということは人間が作り出したものだと考える方が、自然なことになってしまう。人は自分の憧れを載せて、「アイドル」や「カリスマ」と呼ばれる人たちを作り出すことはしょっちゅうしていることだから、神も仏も、大昔の「ペ・ヨンジュン」と「イ・ビョンホン」ということになってしまうのである。

 私は、「良き人間」になりたいと思い、信仰を持てば「良き人間」になれるかもしれないと思って持とうとした人間である。私が信仰を持てなかった理由は、教義を持つ宗教の教義をあれやこれやと手当たり次第に読んでみても、ほとんど全く「理解できなかった」からだが、信仰を持つと人は良き人間になれるのだろうか? そして人の多くが信仰を持つことで世界は良くなってゆくのであろうか? 私は、そうは思わないのである。
 私の意見を、控えめに言うと、@信仰のあるなしと、「良き人間」かどうかは全く無関係である。A信仰のあるなしと、「良き世界」かどうかは全く無関係である。そして、私の本音はこうだ。@信仰を持っている人ほど、「良き人間」になることは遠くなる。A信仰を持っている人が多いほど、「良き世界」を作ることは遠くなる。
 というわけで、私はこのホームページを作って、全く新しい信仰と宗教をみなさんに知ってもらおうと思っているのである。 
 
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