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   T 信仰と宗教について  
     
   3. 宗教について  
    「信仰」が人の経験や知識とともに自然発生したものであっても、「宗教」は、どんな宗教でも明らかに人が作ったものであるので、これを理解するのはそんなにむつかしくはない。キリスト教はイエスの教えを広めるために作られたものであり、仏教はゴータマの教えを広げるために作られたのであり、イスラム教は預言者ムハンマドを通したアッラーの教えを広めるために作られたのである。共に、できるだけ多くの人に教えを広めることが「宗教」の目的であることは間違いない。それは、私たちの国の新興宗教でも同じことである。だから、どの宗教組織も信者の獲得こそが最も大切なことだ。教えを信じてくれる人を大勢作ること、それが宗教の目的である。私たちの国では、先にも話したように「教え」を広めることは甚だむつかしい。結局はどの宗教も「祭祀と儀礼」だけが残り、それは新興の宗教でもほとんど変わらない。このことは私たちの国の国民性というより、アジア全域に住む人たちの習性みたいなもので、アジアではどの国でも教義が書かれた本を広げて勉強するなんてことは無いように思う。特に仏教圏の国々では、その特徴が顕著である。仏教は、教義というより難解な哲学としての側面があるので、もとより一般の人に説明して、理解してもらうことは非常にむつかしいものだ。それゆえ、ゴーダマの教えを広めようとすればするほど、ゴーダマの説いた教えとは似ても似つかぬような教義さえ出現する。仏教は、そのようにして多くの仏典を創出してきた。そしてどの仏典を根本教義に据えるかということで、数多くの宗派、宗旨を生んできた。だが、どの仏典を教義の根本に据えようとも、どんな宗派や宗旨が創設されようとも、結局私たちの国では「祭祀と儀礼」しか残っていないのは事実であって、それはゴーダマが嫌っていたバラモン教の習慣であり、そういうものしか残っていないことにきっとゴーダマは苦笑していることであろう。
 さて、私は生粋の「科学主義者」である。私が科学主義者である理由は、科学の知識が誰にでも開かれていて、国や地域や人種や民族や年齢や性別を問わず、誰でもが知識を吟味することが許されているからだ。とりわけ、自然科学に属する知識については、知識を吟味する場所である「学会」が世界的なので、世界中の人によって知識の吟味が行われていることになる。元来、知識の出所はひとりの人間の脳裏であって、そこが知識の出所である限り、誰のどんな知識も最初は「私見」や「臆見」に過ぎないものだ。それを、人々が持っても良い「知識」とするには、可能な限り大勢の人の吟味が必要である。詳しい話はしないが、私自身はこの方法以外、「私見」や「臆見」を「知識」に変える方法を知らない。一方、宗教的知識は、人が吟味することを許さない「絶対的知識」である。そうなると、私の見解では、それらは全部「私見」や「臆見」という事になる。ゴーダマの私見、イエスの私見、ムハンマドの私見、法然の私見、親鸞の私見、等々、私見のオンパレードということになる。特に、仏教は新しい経典の制定や、仏典の改訂や解釈の違いには余り頓着しなかったらしく、その結果、数多くの経典とそれを根本教義とする数多くの宗派、宗旨が生まれている。また、仏教でも、キリスト教やイスラム教でも、教団内の人間による経典や聖典の解釈のわずかな違いでさえも対立を産んで、異議を唱えたものが厳しい迫害にあったり、追放されたりしている。どれもこれも、教祖や始祖の知識を「絶対的知識」だとして、人が吟味することを許さなかった結果起こったことである。教義の正しさは、教団内の人間だけによって信じられているだけのことであり、誰も自分が信じていることを教団の外には持ち出せない。教団の外で、自分の知識をひけらかせば、他の宗教を信仰している人の批判を浴びるか、馬耳東風のどちらかである。それゆえ、宗教は人を教団のうちに入れることが大切なのである。すべてはそこからしか始まらないのである。
 宗教的知識、神秘主義的知識は、人が吟味することを許さない「絶対的知識」であることは述べた。まさに「寄らしむべし、知らしむべからず」の知識である。だが、もしこれらの知識が人々に解放されて、吟味することを許されたとしても、実際は吟味することなどできないのである。それは、これらの知識が根本的に「不条理」であるからだし、吟味するには知識の正誤を判断する「ものさし」が必要だが、誰もそんなものさしは持っていないからである。いや、厳密には「ものさし」を持てないことがらに主たる権威を置くことで成立しているのが宗教なのである。人がどうあがいても「ものさし」を持てないもの、それが「神」や「仏」という絶対的な権威であり、死後の世界のことである。科学主義者である私にしてみれば、知識の正誤が「権威」や「血統」や「人々の賛同や共感」とは全く関係がないことは良く理解している。だから、私が聖典や経典の探求を行うときには「権威への賛美」の部分は全部無視してかかる。また、納得すべきは私自身であるので、「王」や「賢者」が納得したとかというくだりも無視してかかる。そのようにして、聖典や経典の内容を吟味ができそうな「知識」だけに絞り込むと、その量は極端に少なくなり、残った知識やルールなどについて吟味を始めると、全くとりとめのない言葉だけの集まりになってしまうのである。知識の整合性などほとんど見いだせないし、ルールは矛盾だらけである。だから、人に普通に備わっている「理性」はこう判断を下すのである。これは「不条理」である、と。
 宗教は、人の「理性」を受け付けない。宗教的知識や神秘主義的知識は、人の「理性」を排除する。ところが、そうして「神」にも「仏」にも排除された人の「理性」は、実にとんでもない事を成し遂げたのである。それは、今の世界のほとんど全部を、人の「理性」が作り上げたことである。今のこの世界を作ったのは、宗教でもなければ神秘主義的知識でもない。「不条理」では何ものをも作れないのである。たった一つでも、「不条理」で作れるものがあればお目にかかりたい。「不条理」で建物を建てたら、あっという間に崩壊するであろう。「不条理」で料理を作ったら、きっとまずいものになるであろう。「不条理」で国家や政府を作ったら人々は大いに苦しんで、挙句の果てに国はなくなってしまうだろう。「不条理」で作れるものなど、そして「不条理」で維持して行けるものなど、この世界には何一つないのである。
 物理学は、全ての自然科学の根底にあり、自然科学の基礎を成している。物理学が知識の獲得に用いる手法は、およそ科学と名のつくもの全てに同じ手法が用いられている。データを集めて数値化し、その数値の中に「規則性」を見つけ出すという方法は、「統計」を利用する全ての学問に用いられている手法である。また物理学が、研究の対象としているのは、この世界で起こる全ての「現象」であり、それは私たちにとっては最も大きな「全体」である「宇宙」をその探求の対象としているということになる。だから、物理学者は137億年も前のことについても探求の対象としているし、直径930億光年の球形の空間(地球を中心とした場合の「事象の地平線」内の空間の大きさ、宇宙全体はこれよりもずっと大きな空間を有している。)を探求の対象にしているのである。そして、ごくごく当たり前で身近なこと、リンゴが落ちることも、月が落ちてこないことも、ヤカンを火にかけるとお湯が沸く、というようなことも探求の対象にしているのである。
 私はここでもまた「信仰」の最後に書いた言葉と同じことを書かなくてはならない。
私の意見を、控えめに言うと、@宗教のあるなしと、人が「良き人間」になれるかどうかは全く無関係である。A宗教のあるなしと、人が「良き世界」を作ることができるかどうかは全く無関係である。そして、私の本音はこうだ。@宗教が幅を利かせれば利かせるほど、人が「良き人間」になることは遠くなる。A宗教が幅を利かせれば利かせるほど、人が「良き世界」を作ることは遠くなる。
 
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