T 信仰と宗教について  
     
   4. 「物理学」と「理性」  
    普通に生きている人にとって「物理学」ほど縁のない学問はないのかも知れない。私が、物理学の探求を開始した頃、私の周りにいる大勢の人が、机の上に積み上げられた物理学の本の山を見たり、取り憑かれたように読書に耽る私自身を見たはずなのだが、誰ひとりとして物理学書を手に取ったりはしなかったし、誰ひとりとして物理学に関心を示す人はいなかった。アルバート・アインシュタイン。物理学の世界ではダントツで有名なこの人の名前さえ、今ではほんのひと握りの人間の脳裏にしか存在していないであろう。物理学に限らず、「科学」は学者さんだけが扱うべきものであり、素人(しろうと)さんが扱うべきものではないと誰もが思っているようである。だから、「科学」に携わっていない人にとっては、「科学」は最も敬遠すべき学問であり、下手に関わって「理屈っぽい」などと言われることも避けたいのであろう。「科学」に携わっている人でも、自分が「科学」に携わっていることなど他の人には知られたくはないのかも知れない。「科学者」でなくともとにかく「学者」と呼ばれる人は、他の人から見ればみんな変わり者で、どこか取っ付きにくくて、オタクっぽくて理屈っぽい、嫌なタイプの人間なのである。一方、「科学者」の方でも、素人風情が「科学」について雄弁に語るなんて、言語道断と思っているのかもしれない。「科学」は、全ての人に開かれた知識の集まりであるから、何人も科学的知識を扱うことに文句を言われる筋合いなどないわけであるが、科学者の中にも権威主義的な人は大勢いて、自分の知識にプライドをお持ちの方も多いと思う。ポパー先生の忠告は「知的に謙虚であれ」なのだが、どうやら、頭の硬化が始まった科学者にはこんな言葉も耳に入らないであろう。
 私たちの国では数学離れ、科学離れが叫ばれていて、でんじろう先生など、科学の実験を人に見せることを職業にする人まで現れた。実験を通して科学の面白さを見せることで、多くの人に「科学」に関心を持って貰おうということだと思うが、果たしてその効果のほどはいかがなものなのか。元々「科学」は一般社会とは隔絶した「象牙の塔」の中で行われていた学問だから、一般の人にとってその敷居は高く、また塔の中にいる科学者にとってはズケズケと入ってきて欲しくない領域であろうから、今でもその隔たりは埋まっていないように思う。

 「科学万能時代」と呼ばれて久しいが、そんな時代の中にいる人が「科学主義者」であるかというと全くそうではない。そうではないので、誰も「科学」がどうしてこんなにも人の世界を牽引するほどの力を持っているのかという問は投げかけられたことがない。パソコンや携帯電話、テレビなど自分の眼前で目覚しい進化を遂げるものを目の当たりにしても、誰もこの質問を想起しない。それは「なぜ、科学の進歩がこんなにもめざましいのか?」ということである。
 
 さて、いよいよ本題に入ろう。上記の問題をスッキリと解決したいと思うのである。答えは意外と簡単なのだ。
 私が物理学を探求していて驚いたことがある。それは物理学者が予言したものが現実の世界に見つかるということであった。湯川秀樹さんしかり、小林さん、益川さんしかり、最近ではヒッグスさんしかりである。どうしてこんなことが起こるのであろうか? 普通の科学の多くは、観察することから始まる。物理学も例外ではないが、物理学の場合は観察した結果を必ず数値で表して、その数値の中に「規則性」があるかどうかを見極め、あるようならどんな規則があるのかと「仮説」を立てる。そして、仮説を証明するために必要な実験をして、仮説が予言する通りの結果を得たら、その仮説は正しいのではないか、と言うことになる。所謂「仮説立証法」と呼ばれるものだ。物理学では、とりわけこの方法が多く取られている。もちろん、科学的知識は、多くの人の批判と推敲が必要だから大勢の人に吟味してもらわなくては、最終的に正しいことにはならないが。
 そして、物理学の場合はこのプロセスは全て「数学」上で行われる。「数学」は、人間の頭の中だけで構築された「ルールが無矛盾であること」あるいは「ルールの整合性」だけを考慮に入れて作られた「数と無矛盾なルールだけの体系」である。
 「物理学」と「数学」の関係はつとに有名である。物理学者は自分の仮説をうまく表現してくれる数式を「数学」の中に探しにゆく。物理学者は、どういうわけかそれを「数学」の中に見つけるのである。アインシュタイン博士の相対性理論と関連の深い数学は「リーマン幾何学」「ミンコフスキー幾何学」や「非ユークリッド幾何学」である「ロバチェフスキー幾何学」である。これらはみな、数学者の頭の中だけで構築された「現実」とはかけ離れた数学であるが、「現実」を扱う物理学にはなくてはならない「数学」である。またニュートン博士のように、新しい数学を自分自身で組立ててしまう人もいる。ニュートン博士は自らの理論を表現するために「微分積分法」という数学を考案した。
 今でも、理論物理学者は数学によって、数学だけを使って物理学の問題に取り組んでいる。小林さん、益川さんも数学だけをあれこれ弄って、「クォークは6種類以上なければならない」ことを予言し、それが実験で確認されたので、ノーベル賞を受賞したのである。

 ここまでの経緯を少しまとめて書いてみると、
 「物理学」は、物理学者の眼前に広がる「現象」、この世界にある全ての「現象」を探求の対象とし、そこにあるメカニズムの解明を行う学問である。従って、物理学者が扱っているのは、紛れもなく「現実」である。

                     

 「物理学」は「現実」を探求するための道具として「数学」を最も多く用いる。「数学」は人間の「理性」(ルール全般に関わる能力)が構築したものである。人間の「理性」は「ルール同士が無矛盾であることを要請し、ルール同士に整合性があることを要請している。」だから、人間の頭の中だけにある数学の世界は、「数と無矛盾なルールだけの体系」で構築された世界である。

                      

 そして、「物理学」は、本来なら私たち人間の頭の中だけにあるはずの「数学」を用いて、「現実」の世界を最もうまく表現し、「現実」を知るもっとも良い手がかりにもしている。

                     

「物理学」によって解明されたメカニズムは現実の世界のうち「星の世界」(「物質の世界」)である。(それ以外には「生物の世界」というものがある)「物理法則」は概ね「数学」で表現されているから、実際の「物理法則」もまた「数学」と同じ特徴を持っていて、「物理法則」は「ルール同士に矛盾のない、良く体系化されたルールの集まり」である。「数学」は私たちの「理性」が構築したものであるから、「星の世界」のルールである「物理法則」が「数学」で表現されているというとき、「星の世界」は私たちの「理性」に適った世界であるということができる。

                    

 「物理学」はほとんど完成の域に達していて、「星の世界」のことであれば、あらかたは理解できるようなところまで来ている。つまり、私たちの「理性」が構築した「数学」を道具として用いた この「宇宙」の探求は、非常にうまくいっているのである。私たちの「理性」は「星の世界」を理解できるほどに有能であり、人間など微塵も存在していない137億年前のことを知り得るほどに有能なのである。
 
 科学が、これほどまでに進化し続ける理由は、とても単純。それは科学が、非常に優秀な人間の「理性」を尊重しているからであり、科学者の多くが自分自身の「理性」を信頼して研究や開発にあたっているからである。

  アインシュタイン博士は「人間がなぜこの宇宙を理解できるのか、それが私には永遠の謎です。」という言葉を残されている。それはそうだ。宇宙の時空は膨大であり、その中にいる星の世界の大きさも規模も膨大だし、流れる時間の量も膨大である。この宇宙に比べれば、人など、塵芥以下で、無に等しい。私たちのいる銀河一つが突然消滅したとしても、1000億あるうちの一つがなくなったというだけの話で、数の上だけで言えば人が一人死ぬよりも価値のないことである。そんな途方もない大きさを持つフィールドが、この宇宙なのである。そんな宇宙の中に、たった100年もろくに生きられない塵芥以下の大きさの人間が生まれてくるのである。仏典にあるように、アリは象の全体を理解できないかもしれない。だが、人は違う。人は、人にある「理性」や「知性」は、宇宙という全体を理解できるのである。
 でも、生きている人の多くは、誰も「理性」を尊重しない。「理性」を信じないし、「理性」の声に耳を傾けようともしないのである。人が自らの「理性」や「知性」を信用せず、用いることの勇気さえも失ってしまったか、あるいは、その発達を阻害されたか、どちらにせよ、この世界で、これほど優秀な人間の「理性」を全く寄せ付けようとしないもの、嫌っているものがあって、それがこの問題に深く関わっていることは間違いないのである。それが「宗教」なのである。

 アインシュタイン博士の疑問に今の私はこう答えるつもりである。「アインシュタイン博士、私たちがこの宇宙を理解できるのは、私たちに備わった「理性」がこの宇宙を作り導いてきた「理性」と同じものだからですよ。」博士はこの答えをきっとお喜びになると思う。そして、博士ご自身も経験した、この星に生まれた人の「人にあるまじき行為」の数々を是正して、人をこの宇宙にふさわしい人にするために、自らの内にあるこの宇宙と同じ「理性」を拠り所として生きてもらう、全く新しい宗教と信仰のありかたを提言しようとする私にエールを送ってくださることと思う。
 
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