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   T 信仰と宗教について  
     
   5. 「理性」への信頼  
    私は、物理学において、人間理性が縦横無尽に活躍するところを見た。物理学者の「理性」は、「物理法則」というもののあり方について次のような要請をした。

 @「物理法則」は、観測するものとされるものとの間で異なっていてはならない。
 A「物理法則」は、「普遍性」と「絶対性」を持っていなければならない。
 Bある「物理法則」が他の法則と全く無関係に存在するようなことはあってはならない。
 Cある「物理法則」が他の法則と矛盾するようなことがあってはならない。
(物理学に限らず、自然科学に携わる全ての科学者は「自然」の中にあるルールにはほぼ同様の要請を行っている。)

 物理学者が、物理法則に対してこれらを要請する根拠というものはない。数学者が、ルールの無矛盾性を「数学」に要請することに根拠がないのと同じように、これと言った根拠はないのである。別に物理学者や数学者でなくても、「ルールが矛盾していること」について平気でいられる人間など誰もいない。各国の立法府においても、「憲法」に書かれた条文がお互いに矛盾していることはないであろうし、また憲法に矛盾した「法律」は作らないであろうし、「総則」「通則」「細則」などと呼ばれて階層化された全ての法律が「矛盾」することなどないであろう。だから、私たちの国でも「憲法」と矛盾するような「法律」を作ろうとするためには、「法律」よりも上位にある「憲法」を先に改正しなくてはならないのである。
 単純に言って、「ルールは無矛盾でなくてはならない」という要請は、私たち人間の全てが全ての「ルール」に求めることであって、これが私たちの誰でもが有している「理性」(ルール全般に関わる能力)の要請することなのである。そして、その根拠を誰の経験の中にも見いだせないのだから、カント先生が言うところの「アプリオリ」な「純粋」な理性なのだ。
 物理学者は、数学という理性によって作られた道具を用いて、世界を理解しようとしたら、それがとてもうまくいった。物理学者が見つけ出した物理法則の数々は、極端に精度の高いルールばかりである。つまり、間違いなく人間理性は世界の理解に通用すると言うことだ。これは別に物理学者だけに限った話ではなく、全ての自然科学と工学、科学技術に関わる人すべてに共通することであると思う。人間理性は、「ルールの無矛盾性」というメタ・ルールをものさしとして用いて、物事を理解するのに役立ち、同じものさしを用いて、新しいルールを構築することにも役立つ。これほどまでに有効性のある人間理性なのに、それも自分自身に備わっているものであるのに、なぜ多くの人はそれを利用しないで生きているのであろうか? なぜ、自分自身をもっと信頼しないのであろうか? 
 私は、物理学を学んでいて、自分自身の「理性」に気づいた。そして、自分自身の理性が、私に要請していることに気づいた。私の理性は「私の行為のルールを全て、『相対性原理』を満たすようなものにしなさい。」と要請していることに気づいたのである。相対性原理とは、「物理法則」が「法則」と呼ばれ得るものであるならば、備えていなくてはならない必要条件である。つまり、物理法則を拘束するメタ・ルールとしてあるのが「相対性原理」であり、物理法則は、どんなものでも必ずこの「相対性原理」を満たしていなくてはならないのである。私の行為のルールもまた、「相対性原理」を満たしていなくてはならないということは、私の行為のルールも物理法則と同じようなものにしなさいということである。つまり、「私の行為が法則となるように行為せよ!」と言うことだ。「法則」とは、ルールの中で最上等、最高のルールのことである。「法則」は「普遍性」を有している。「法則」は「絶対性」を有している。「法則」は完全な「平等性」を有している。「法則」は、特権や例外、ルールのお目こぼしなどが一切ない。
 なるほど、私の理性は実に大胆な要求を私に突きつけてきたものだ、と私は思った。だが、それが私の理性の要求ならば答えねばなるまい。そのためには、まず、私は、自分の行為のルールを知らなければならなかった。その時点で、自分が従っている行為のルール全てをだ。
 私は長い時間を掛けて、自分が従っている行為のルールを探り出し、それに例の「相対性原理」という物差しをあてがってみた。この物差しをあてがって、それを満たすものだけが今後とも私の行為のルールとして残しておけるものであった。私は、一つ見つけては物差しを当てがい、一つ見つけてはまた物差しを当てがうという作業を丹念に繰り返した。そして、その作業を行うたびに私はいつも、愕然として、吐き気さえもようしたのである。私は、たったの一つも私の理性に応える「理」に叶った行為のルールを持っていなかったのである。「好きな人を大切にするというルールは誤りである。」「家族を大切にするというルールは誤りである。」「我が子を大切にするというルールは誤りである。」「国家を大切にするというルールは誤りである。」「親の言うことを聞くというルールは誤りである。」「上司の言うことを聞くというルールは誤りである。」「国家の言うことを聞くというルールも誤りである」「偉い人の言うことを聞くというルールは誤りである。」「聖人の言うことを聞くというルールも誤りである。」「神の言うことを聞くというルールも誤りである。」これらはみんな、「相対性原理」を満たせないので、私の理性が要請するルールではないのである。
 多くの人は良く、人の世界は杓子定規にはゆかないという。確かに杓子定規にはゆかないし、ルール通りにはことが運ばないのが人の世界である。だが、それは人の行為のルールが妥当なものになってからの話だ。ルールそのものが妥当でないのに、杓子定規にゆく訳もなく、ルール通りにことが運ぶことなどないのである。
 我が内なる「理性」の導きをこそ、私には最も大切なものなのである。私の決心は揺るがない。私は私の内なる「理性」を尊重し、「理性」の導きに従って生きてゆくことを決心している。それゆえ、私の「理性」はとんでもない領域へと私を導き、私にとんでもないことを教えてくれた。この宇宙が「法治フィールド」であることを教え、この宇宙では「ルール」がとても大切なものであることを教えてくれたのである。それだけではなく、仏教を軽々と超える真理さえも教えてくれたのである。
 カント先生は「我が上なる星空と我が内なる道徳律」に限りなき思いを寄せた人であった。私も同様に「我が上なる星空と我が内なる道徳律」に限りなき思いを寄せて生きている。私たち人間の行為のルールを星空を作ったルールと同様のものにすること、それが私の願いであり使命だと思っている。
 
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