U 理性が教えた真理について  
     
   1. 「真理」なんてくそくらえ!  
    私は、生粋の科学主義者だから、瞑想もしなければ、修行も行ったことはない。宗教や神秘主義の知識についても一応の見識はあるものの、理解できなかったのだから大した価値はないと思っている。
 私がこれから語ることの全ては、「物理学」から学んだものだ。自分自身がそこに住まいするというとても単純な理由で、この「宇宙」というフィールドを理解したいと願い、この「宇宙」という全体が、一体どんな場所で、そこにはどんなものが生まれ、どんなメカニズムを持っているのか、等々を理解しようと探求の日々を送ってきた。そして、宇宙というこのフィールドを自分でも納得できるほどに理解することができたとき、宗教家や神秘主義者が「真理」と呼んでいる知識以上のことを知っている私に気づいただけだ。宗教や神秘主義に傾倒する人たちにとって、「真理」を知っていることは実に偉大なことであるらしくて、「真理」を体得した人たちをグルだの尊師だのと呼んで、自分自身も「悟り」を得たいと、得体の知れない「教団」に脚を突っ込んでいる。未来ある若者が、「真理」など知っていようがいまいが大したことのない知識であるのに、そんなものを追い求めて時間や人生を無駄にするなど、実に痛ましいことだ。また、「真理」など馬鹿げたほど単純なことばかりなのに、それを難解な言葉で粉飾して、「寄らしむべし、知らしむべからず」で金儲けに走っている大勢の大人たちもどうかと思う。それに「真理」を知っていると名乗っている人は世界中に大勢いるであろうに、世界は全く良くならないのはどうしてだろうか? 科学のおかげで、人の作ったものは日進月歩を続けているというのに、人そのものは、進歩している気配が全くない。ソクラテス先生が2千年以上も前に、アテナイの市民に語った言葉を、私はそのままそっくり今の人に突きつけたい気持ちになる。「より良き世界」には、必ず「より良き人間」が住んでいなくてはならない。それなのに、誰も「より良き人間」になろうとなど、思っていないのである。宗教や神秘主義が、人をより良き人間にするという役目を買って出て、それを実行してくれているのであればまだしも、宗教も神秘主義も「真理」だの「教義」などを振り回している割には、何の成果も上げていない。彼らの成果と言えば、あちらこちらにご立派なご聖堂を建築するだけなのである。それに彼らは、多分「より良き人間」とはどういう人間か? さえも、良くは分かっていないのだと思う。
 まぁ、仕方ない。「絶対的知識」を教義にして、それを売り物にしている以上、宗教や神秘主義の知識が改善されることなどありえない。知識が改善されないのに、状況が変わることなど有り得ないのだから、宗教に関わる人の多くは、相変わらず祭祀儀礼に励んで、教団にたっぷりと寄進をして、それで自分は良き人間だと思い込むのが関の山であろう。

 私は、「真理」なんてくそくらえ! と思っている。残念ながら、「真理」の多くはとても単純でごくごく当たり前のことばかりで、深遠さもなければ、妙でも稀有でもない。元々そんなものを後生大事にしてきたのは、宗教組織というものが、教祖やグルや尊師などという「人」に権威を授けるだけでは飽き足らず、知識にさえ「権威」を授けようとしたからだ。だから、ご大層な文句をつらつらと書き並べた教典ばかりがあるのである。
 宗教や神秘主義が「絶対的知識」を扱って、知識の改善を行わずに経過した長い年月の間に、私たち人間は片時も欠かさず、世界のどこかで、世界の誰かが、世界にある何かについて情熱を燃やして探求を続けてきた。私も、その一人で、それこそ毎日毎日寝ても覚めても「宇宙」を理解したいと思って探求を続けた。だから、人が世界について知っていることの全て、「人知の全て」は膨大な量に上るのである。特に「科学」という知識を獲得するのに有効な手段が生まれてからというもの、人の知識は格段に進んだのである。だから、残念ながら、宗教が後生大事にしている「真理」とやらは、もうとっくの昔に物理学をはじめとする自然科学者の知識に追い抜かれていて、「真理」を知るのに瞑想や修行などをするのは馬鹿げたことなのだ。
 だから、「真理」については、私が、ここに全部書いておいてあげるから、読めばいいだけだ。
 だが、勘違いしないで欲しい。「知識」は移譲できないから、みなさんは「真理」を読むだけである。「真理」であれ、何であれ、およそ「知識」と呼ばれるものを移譲することはできないのだ。人に移譲できるのは「答え」であって、「答え」なら移譲できる。だが、知識はそれを探求をする者だけにしか、身につかないし、役に立たないのである。知識が簡単に移譲できないからこそ、あなたの内側から湧き上がる知識でなければ、あなたの役には立たないからこそ、瞑想や修行の伝統があるのだ。「真理」を知るゴーダマが、あれほど大勢に「真理」について語って聞かせても、周りの人にはほとんど何もわかってもらえなかった。それゆえ、「ただ犀の角のように一人歩め」と「真理」を自ら求めるように促したのである。今でも、科学においてであれ、信仰においてであれ、「知識」の獲得方法は違っていても、ただ探求する者だけが、それを自らの内において知ることができ、彼らだけが「真理」や「知識」の真の価値を享受できるのある。

 だから、私が「真理」について知っていても、ゴーダマを始め多くの仏教の教祖や開祖が真理について知っているのと同様に、実際には何の価値もないのである。語って聞かせても、「知識」そのものを価値あるものとしては移譲できないのだから、全て無駄なことだ。それゆえ、みなさんには、自らの「理性」を信じ、自然科学である物理学の知識を丹念に探ってゆけば、宗教的手法の一切や「神秘」などというものを当てにせずとも、「真理」を知ることぐらいはできることが分かってもらえれば、それで良いのである。「真理」を知る者を「悟り」を得た者として、「ブッダ」と呼んでご大層な人物に祭り上げたのは、2千数百年も前の話である。その間に、人知の総量は格段に増えたのであるから、今なら誰でも「真理」ぐらいなら知ることができるのである。
 
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