U 理性が教えた真理について  
     
   2. モノは壊れて、人は死ぬ(1)  
    みなさんは、ゴーダマの遺言というか最後の言葉をご存知か?

 彼は「比丘らよ、汝らに告げん。諸行は壊法なり、不放逸に依りて精進せよ。」という言葉を最後に、涅槃へと旅立たれた。平易な言葉にすると、「修行僧たちよ、みなさんに言っておく。この世界にあるものは全て壊れるのが定めである。このことを心から離さずに修行に励みなさい。」ということになる。みなさんの周りに壊れないもの、どうやったって壊すことができそうにないものはあるか? また死にそうにないもの。どうやったって殺すことができそうにない生き物がいるか? 壊せないモノはないし、殺せない生き物はいないのである。生き物には、寿命というものがあるから、それが尽きればどんな生き物でも死んでしまう。これはみな当たり前のことである。モノは、それに比べれば保守・点検・修理などを行えば結構長く維持できるものもある。とはいえ、ゴーダマのいた頃には、人間の作ったものと言っても今に比べればわずかだろうし、それらの多くは余り耐久力のない素材で、しかも今に比べたら稚拙な製法でできていたであろうから、すぐに壊れてしまったものも多かったであろう。それ以外には生き物と自然しかないが、生き物は死んでしまうから、後、長くありそうなものといえば自然ということになる。ゴーダマの時代には、夜空には満天の星が輝いていたはずだが、ゴーダマはこの星でさえもいずれは壊れてしまうと思っていたのであろうか? それとも、西洋の古代思想のように、「天界」は「地上界」とは異なるルールで出来ているところだから、壊れないと思っていたのであろうか? また、自分がその上に乗っている球形の物体、今は地球と呼ばれるこの惑星や大地でさえ壊れてしまうと思っていたのであろうか? まぁ今となっては知る由もないが、星や大地や全体としての自然までも含めて、いずれは壊れてしまうと言ったのであれば、それはすごいことではある。それは今の人しか知りえないことだから。
 だが、人が死んでしまうこと、モノが壊れてしまうこと、あるいは人でもモノでも大切なものを失うことの悲しみを取り除くために、人々にこう語ったのであれば、話は別だ。それなら、ゴーダマは、達観(一部に拘泥しないで全体を観察し、真理・道理をみきわめること。また、何事にも動じない心境に至ること。)しているというだけだ。そして、修行僧たちにも自分と同じように「達観」することを促しているだけである。

 今の人間なら誰でも、世界について少なからずの知識があるから、壊れないものなどこの世界にはないことを知っている。そして死なない生き物などいないこともまた知っている。大切なモノでも人でも失うことがあることもまた知っている。だが、誰も「達観」していないのは事実である。誰でも、身近な人が死んだといえば泣き喚いて、大切なモノを失ったら激怒して、ゴーダマの時代の人と何ら変わりはないのだ。
 断言する。「知識」の移譲はできないのだ。「モノは壊れて、人は死ぬ」というのは、ごくごく当たり前のことなのに、誰に教わっても決して、分かることなどないのである。だから、ゴーダマは苦労する。だから、ゴーダマは、修行に励むように促すのである。自らの心の内に、内面からほとばしって出てくる知識ならば、誰に教えられずとも、それは自然に身について、「達観」を促す。「達観」したから、慌てず騒がず、何事にも動じることなく適切な振る舞いができるのである。でも、それを可能にしてくれるのは、自らのうちに、自らの脳裏に生じた知識だけであって、他者の知識では、その効果はないのである。もちろん、他者の言葉や知識であっても「目からウロコが落ちる」ように、すっきりと身のうちに入ってくることもある。だが、それは希なことだ。一生のうちに数度か、多くても十回まで、それぐらいのものであろう。

 さて、みなさんに「真理」をご披露しても上記のような理由で何ら有効性がないのは明らかだ。たった一つ有効性があるとしたら、真理の探求を黙々と続ける人がいて、その人が何かしら真理らしきことを見つけたとしよう。でも、本当にそれが真理かどうかわからないので、確かめるためになら使っていただける。私が、自ら「幸福の制限」をし、私の行為のルールを星たちと同じものにしようと決心したとき、私はまだカント先生とは出会っていなかった。でもきっと、世界のどこかに私と同じようなことを考えた人がいるはずだと、折に触れて本屋を歩き回っている時に見つけた本がカント先生の「道徳形而上学原論」である。読んでいて、涙が溢れた。自分と同じように星空のルールを我が行為のルールにしようとした人がいたのだから。そして、自分が幸福に値するか自分で判断して、自分自身で幸福を制限すべきこともその本には書いてあった。まぁでも、カント先生と私が同じようにものを考えて、二人の意見が一致したぐらいでは正しいことにはならないのだが。

 本題に入るとしよう。ゴーダマは「諸行は壊法なり」と言った。全てのものは壊れる定めにあると。だが、もしゴーダマが物理学を知っていたら、そうあっさりとこのように言えるものでもないのだ。みなさんは、「素粒子」というものをご存知であろう。素粒子はこれ以上分割できない、今の時点では最小の基本粒子のことである。そして、素粒子はこれ以上分割できないのだから壊れないのだ。どうですか、みなさん、世界の中に壊れないものがあっただろう? とは言え、屁理屈をこねていると思ってもらって構わない。いくら素粒子が壊れないとは言え、私やみなさんの周りにあるものはやっぱり壊れてしまう。実際にはどんどんどんどん小さなものへと壊してゆくと、最後は素粒子と言うものになる、ということだ。そして、素粒子は壊れないのだ。大切なのはここからだ。と言うことは、
 この宇宙では、壊れないもので壊れるものができている。ということになる。また、私たち生き物は死すべき運命にあって、どんな生き物でも寿命が来れば死んでしまう。だが、私たちは「物質」で出来ていて、「物質」は死なないのである。だから、死なないもので、死すべき運命にあるものが出来ている ということになる。また「物理法則」の中には保存則というものがたくさんあるが、これは世界にあるものが形を変えても普遍に保たれているものがたくさんあることを示している。つまりこの世界を作っている元のものは「永遠性」を有しているのである。だから、 この宇宙では永遠なるもので有限のものが出来ている、ということだ。まぁ三番目のことは、「保存則」について語らなくとも、原子について少し考えてもらえばわかることである。私たちの世界を作っている普通の原子は、そのほとんどがほとんど完全に安定していて、滅多なことでは壊れない。この宇宙で最も多い元素である水素は、陽子一個と電子一個でできているシンプルな構造の原子なのだが、水素の原子核である陽子は、この宇宙という全体よりも寿命が長い。それほど安定しているのが陽子なのだが、全ての原子の原子核にはこの陽子が使われているから、どの原子もとても安定していて、壊すのは大変なのである。みなさんの体にある「水分」「アミノ酸」「タンパク質」「脂質」などの分子構造を調べてもらえばわかるが、非常に多くの水素が使われている。このみなさんの体を構成する水素は、137億年前に生まれたものだ。そんな昔に生まれた水素が未だに壊れもせずにみなさんの体を作っているのである。そしてみなさんが跡形もなくこの世から消え去っても、みなさんの体を作っていた水素は、また誰か他の人の体を作っていることだろう。
 ゴーダマの時代には、こういう知識はなかったから、真理を探求するにしても、考慮に入れなければならない知識の量も内容も今とは違うのである。だから、訝(いぶか)しく思って考察しなくてはならないこともまた異なる。私が探求の対象としたのは、この宇宙ではどうして壊れないもので壊れるものをわざわざ作り、どうして死なないもので死すべきものをわざわざ作り、どうして永遠なるもので有限な時間しか維持できないようなものをわざわざ作っているのか、ということなのである。
 これが解ければこの宇宙は理解できるはずである。誰も、こんなことを考えたこともないだろうが、誰でもが知っていることではあるのだ。ゴーダマも、最初は「この世界にはどうしてこんなにも『苦しみ』があるのか?」と『苦』を訝しく思ったわけだが、『苦』など誰でもが経験しておりごくごく普通の当たり前のことではないか。その当たり前のことを訝しく思うことが、大切なことなのである。物理学者をはじめとする全ての自然科学者は、当たり前のことしか探求の対象としていない。誰がリンゴが木から落ちるのはなぜか? と考えたりするものか。青森のりんご農家のうち、一人でもこの現象を訝しく思って探求を開始していたとしたら、今頃私たちの国が「物理学」の本場になっているはずだ。当たり前のことを、探求の対象とする人は世界でも数少ないのである。あらかたの人は特別を好み、ありきたりと当たり前に関心を示すことはないのである。科学者は、そう言う意味では実に奇特な人たちであり、当たり前ではないもの、「奇跡」は扱わないのである。(次項に続く)
 
 
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