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   U 理性が教えた真理について  
     
   4. モノは壊れて人は死ぬ(3)  
    私の周りには、誰ひとりとして、そして見聞する世界の中にさえ誰ひとりとして、「ルールを尊重する」ことを胸に刻み、意識して生きている人間はいない。実に痛ましいことだ。この宇宙が法治フィールドであって、私たち人間には他の動物にはない突出した理性が備わっていると言うのに。
 ルールについて語り始めることは、ほとんどの人間が嫌うことであるかも知れない。自分に制限を加えるものの話など聞きたくはないのが当然だ。
 「物理法則」は相対性原理を満たしているので、二つのものの間にあるルールは常に同一のものであり、どちらから見てもルールが異なっているようなことはない。ものの大きい小さい、あるいは重い軽い、あるいは力の大小などにかかわらず、ルールは常にどちらから見ても同一のものなのである。私たち人間をはじめ地球に生きる全生物にとって「太陽」は、地球上の生き物が生きてゆくのに必要なすべてのエネルギーを供給するという意味において「神」以外の何者でもない。それゆえ、古の人々には、太陽は「神」として崇められたし、それ以降に起こった一神教は、太陽という偉大なものを一つだけ崇拝することから始まったのだと思われる。だがそんな「太陽」であっても何の特権をも有していないのである。「物理法則」はいかなるものでも「例外」とせず、いかなるものにも「特権」を与えないルールであるので、私たちと太陽とは全く同じルールを適用されている。私たちに備わっている理性は、「ルール全般に関わる能力」である。だから、「物理法則」が妥当なものであるかどうかを推し量ることができる。「物理法則」は、「太陽」にさえ特権を与えない「完全に平等なルール」であり、私たち人間の誰の理性で判断しても「理」に適った最高、最上等のルールだと判断するはずである。
 「良かった」ではないか? 宇宙を構築するルールが、このように私たちの「理」にも適ったルールであったのだから。もし、このようなルールでなかったとしたら、大変なことであった。何せいかな人間といえども、宇宙のルールを変更することは絶対にできないことだろうから。

 「物理法則」は星や銀河といった「天体構造」を組み立てるルールであり、それを維持するルールである。「物理法則」という素晴らしいルールで組み立てられたものには、「対称性」という私たち人間の感性が「美しい」と感じる特徴がある。だからこの「宇宙」は美しい。そして、素晴らしいルールで組み立てられたものには安定性がある。そして、それを維持するルールもまた素晴らしいので、決められた寿命を全うするまでは、モノが壊れることは滅多にない。素晴らしいルールで組み立てられ、素晴らしいルールで維持されているものは、天寿を全うできるのである。人もまた同じことであろう。人は皆素晴らしいルールで組み立てられてはいる。だが生まれてからは、我が身を維持するルールは自分で決めなくてはならない。素晴らしいルールに従って我が身を維持している人は長生きするのであり、そうではないルールに従って我が身を維持している人は、短い一生を送るのであろう。とは言え、人の「天寿」にはバラつきが大きいから、一概には言えないのだが。
 この宇宙は法治フィールドであるので、仏教で言う「利自則利他」はすぐに実現する。ただただ、「相対性原理」を満たしているルール、妥当であるルール、「理」に適うルールを「自」と「他」のお互いが遵守しているだけで、お互いに相手を「利」することができるのである。そして他に「利自則利他」を実現する方法というのはない。名ばかりの仏教解説者や、新興宗教の教祖がこの言葉についてあれやこれや御託を並べているのを見かけるが、別にむつかしいことはないのである。「利自則利他」は妥当なルールをお互いに遵守していればいい、ただそれだけで簡単に実現できるのである。例を挙げる必要もないと思うが、私が交通ルールを遵守することを胸に刻んで、いつも心がけていて、みなさんも同じようにしてくだされば、私もみなさんも共に傷つく可能性は小さくなる。たったこれだけのことで、お互いに「利」があるではないか。だが、私の周りには誰ひとりとして交通ルールを遵守することを胸に刻んでいつも心がけている人はいないのである。ルールを尊重して生きている人がいないのだから仕方がない。
 
 私たちは誰もこの宇宙が法治フィールドであることを知らない。それゆえ、誰もルールを尊重することはない。ルールが妥当なものであることで、達成されるのは「高い秩序」である。ルールが妥当なものであることで維持されるのも「高い秩序」である。「秩序」を高く維持することで、私たちはモノが壊れたり、人が死んだりする可能性を低く抑えることができる。だから、私たちは可能な限り大きな「安定」「安心」「安全」を得られる。

 だが、やはり、モノは壊れて、人は死ぬのである。いや、モノは壊れて、人は死ななくてはならないのである。モノが壊れず、人が死なないというのであれば、ルールの意味や価値がなくなるからである。この宇宙は法治フィールであり、ルールによって秩序の高い状態を保ち、なるべくモノが壊れないようにするというメカニズムを持っている。だが、壊れることも壊れる可能性もないものが、宇宙を作っているのであれば、そんなものにこのメカニズムが必要であるわけはない。私の車もみなさんの車も絶対に壊れず、運転している私もみなさんも絶対に死なない、傷つかないというのであれば、交通ルールなんて必要であろうか? 考えて見ればすぐにわかることだと思う。
 モノは壊れて、人は傷つき死んでしまうものであるからこそ、そうならないように「ルール」を守るのである。妥当なルール、「理」に適ったルールを遵守してあげれば、共に長くいられるから、ルールを守るのである。他に理由などない。
 だから私と「神」や「仏」の間には、ルールは全くなくて、私は彼らの前でだけは完全に「自由」である。私の行為によっては何の影響を与えることができないもの、傷つける可能性も全くなく、貶める可能性も全くなく、滅する可能性も全くないものとのあいだにルールなんてあるわけがない。だから、私は彼らの前では完全に自由であるのだ。私以外のほとんど全ての人は、「神」との間に契約というルールがあったり、「律」と呼ばれるルールがあったりするが、私には全くないのである。その代わり、私のいるこの世界のどこにも、壊れないモノ、傷つかないもの、死なないものが何一つとしてないのである。だから、私は、神や仏とのあいだのルールは一切守らないが、この世界にある全てのものとの間のルールは、是が非でも守らなくてはならないのである。壊してはいけないから、傷つけてはいけないから、可能な限り長く共にありたいから、ルールを守るのである。
 絶対に壊れない者である神や仏との間にあるルールを後生大事にお守りになられるみなさんが、壊れるものしかない世界、傷つくものしかいない世界のルールを尊重なさらないのは一体どうゆうわけであろうか? まさか神や仏が「特権」を与えてくれることを期待しているのではあるまいな? まぁ、人の神や仏と言えど、この宇宙が法治フィールドであることさえもご存知ないのだから、そういうこともあるかもしれないな。だが、宇宙の神は、いくらすがっても「特権」を与えるおつもりはないようなのだ。「太陽」にさえ特権を与えない宇宙の神が、人間ごときに特権など与えるはずはないし、ルールを尊重する宇宙の神が、ルールの価値を損ねるようなこと、「理」に適わぬことなどするはずはないのである。

さて、ゴーダマの遺言は「比丘らよ、汝らに告げん。諸行は壊法なり、不放逸によりて精進せよ。」であった。だが、私はゴーダマのこの遺言は不完全であるから、付け足さなければならないと思っている。それは「比丘らよ、汝らに告げん。諸行は法なり、不放逸によりて精進せよ。かつ、諸行は法なり、不放逸によりて精進せよ。」今ならご理解されるであろう。全てのものは壊れるのが法である。それは確かだが、できるだけ壊れないようにと、「法」が全てのものの「懐(ふところ)」に隠されていることもまた事実なのである。
 
 
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