U 理性が教えた真理について  
     
   6. 「人間の習性」と「争い」の関係性について  
    私たち人間は「生き物」である。「生き物」は「力」では「ルール」を与えて「秩序」を創出することができない。だから、私たち人間は、高い学習能力を利用してルールを身に付けながら生きてゆく。幼少期では、最も身近な人のルールを身に付ける。両親や兄弟や祖父母などの行動を見て学習する。言葉も言葉にある訛りも、この時代に身に付ける。そして、学校へ行くようになると、社会性と総称しているルールを徐々に身につけてゆく。そのほか、運動部や文化部に所属して、自ら好んで訓練して、身に付けるルールもある。私の子供は3人とも少年野球をしていたから、野球のルールをたくさん身につけた。ルールブックなどは一度も読んだことがないのに、試合を行う上で必要な基本的なルールと勝利するために必要な「定石」と呼ばれるルールもたくさん身につけた。人は、生きてゆく上で必要なルールはその時点、その時点で必要なことだけを学習して身に付ける。だが、それはほとんど無意識のうちに行われることで、獲得したルールの多くも無意識の中に格納されるので、誰も自分がどれほど多くのルールに従っているか、またどんなルールに従っているか、はなかなか気がつかないものだ。
 それが生まれながらにして持っている「習性」ともなると、話はずっと込み入ってくる。習性は、それを獲得した時期がずっと古くて、しかも個体ではなく「種」が獲得したルールだからである。ショッキングだが、話しておこうと思う。私たちが「戦争」ばかりを繰り返して、有史以来ずっと「争い」と「競争」の日々を送ってきたのは、私たちにある「習性」が原因である。そして、その「習性」がある限り、私たちは決して「争い」をやめることはできないであろうし、「良き人間」にはなれないだろうし、「より良き世界」も作れない。残念な話だが事実なのである。

 サル山に行くと「ボス」と呼ばれるサルがいる。そして「ボス」から順番に「力関係」を表す、群れの中の「順位」と呼ばれるものがついている。ここまでは、誰でもがご存知だ。ここからがショッキングなのだ。そしてサルたちは「順位」に応じて「生きてゆくのに有利なルール」を獲得している。「ボス」は一番先にエサにありつくことが許されている。以下、2番目、3番目とエサにありつく順番が決まっている。これは「ルール」である。「ルール」であるから、守らなくてはならないものだ。しかも「習性」として身に付いているルールなのである。これと同様の「習性」はプライドと呼ばれる群れを作るライオンも、有名な肉食恐竜であるティラノザウルスも持っている。群れで暮らす「動物」たちは多かれ少なかれ、みんなこの「習性」を持っているのである。ではなぜ、この「習性」を持つようになったのであろう。その理由は、群れで暮らすとはいえ、いつもいつも群れを構成する成員みんなに行き渡るだけの食料を確保できるわけではない。動物はみな食べなければ生きてゆけないのだから群れの中でも食料をめぐる「争い」が始まるのは当然のことだ。だが、食料が少ない時にいちいち群れの構成員全員が「争い」をして食料を奪い合っていたのでは、たまったものではない。食料の取り合いで群れの構成員がどんどん傷つき死んでいったのでは、群れで暮らす意味もなくなり、群れで狩りをすることさえできなくなってしまう。だから、群れで暮らす動物はたった一度の「争い」で「力関係」を決めてしまうと、その後は「力」の順位の高いものから順番に「有利なルール」を獲得して、「有利なルール」において生きてゆくことができるという「習性」を身につけることで、無益な争いを避けたのだ。
 人間はただ争ったり、競争したりしているわけではない。「生きてゆくのに有利なルール」を勝ち取るために争っているのである。
 人間のこの本質的な「争い」はスポーツやゲームとは違う。スポーツやゲームなら、一回切りの勝敗でケリがついてその結果賞金なりメダルなりを一度だけ手に入れるだけだ。その後、勝った方がずっと有利な戦いを進められるというわけではない。だが、人の「争い」には「ルール」がかかっている。その後ずっと継続される「ルール」がかかっているのだ。猿山のボスはなかなか負けない。何故なら、いつも他のサルよりもたらふく食べているからだ。毎日毎日たらふく食べているのだ。その結果、最下位にいるサルたちがガリガリにやせ細っていても、ボスはやっぱりたらふく食べているのである。元来「ルール」は継続して行うものであり、守り続けることに価値があるものである。だから「有利なルール」が継続されればされるほど、継続される時間が長ければ長いほど「格差」は広がってゆくのが当たり前だ。有利なものは益々有利に、不利なものはどんどん不利になってゆくのである。
 この習性は、世界中の至るところで、人と人との関係があるところでは、国家間から家庭の中まで、すべての「人間関係」の中に潜んでいる。「腕力」という「力関係」によって男女間のルールは決定されてきたし、「経済力」という「力関係」によって、親子間のルールは決められたきたし、「武力」という「力関係」によって国家間のルールは決められて来たのである。今の社会なら、先進国や経済大国にいるすべての人間はほとんど強制的に他者との「競争」を強いられているから、極端に言えば、自分の周りにいるすべての人間が「力関係」に決着を付けて、「有利なルール」を獲得できるかどうかを争う競争相手ということになる。
 「勝てば官軍、負ければ賊軍」、「勝てば英雄、負ければ大馬鹿者」なのである。この違いによって、彼ら自身がこれから生きてゆく「ルール」が決まり、そして、周りにいる人間たちの「ルール」まで決まるのである。官軍の人生と賊軍の人生が同じかどうか、英雄の扱い方と敗残の兵の扱い方が同じかどうか、考えなくてもわかることであろう。
 私は、ずっと訝しく思ってきた。世界のルールがこんなにも歪んでいるのに、なぜ人はこんな歪んだルールに黙々と従っているのかと言う事を。みなさんは、おかしいと思わないのだろうか? 戦争であれ競争であれ、勝負に負けたらなぜ自分たちに不利なルールなのに人は一生懸命守ろうとするのであろうか。 私たちの国家も敗戦国であるが、なぜ誰も疑うこともしないで、戦勝国の命令には従わなくてはならないと(自分から)思い込んでいるのだろう? 「力関係」の決着が付くことと、「ルール」など、本来何の関係もなさそうなものだろう? ドラマや映画の中ではあらゆる「正義」は「力」には屈しないのが、当たり前というものである。主人公には「力」には屈しない性質がある。だが、みなさんは全然違う。敗者が勝者の言う事を聞くというのを当たり前のように思っているし、「力」のあるものの言うことを聞くのを当たり前と思ってはいないか? 「寄らば大樹の陰」とか、「長いものには巻かれろ」とか、そういう生き方をしてはいないか。なぜそれが当たり前なのだろう? 負けたら押し付けられるのは「不利なルール」なのに、なぜそれを守り続けることを当たり前のようにするのであろう。普通に考えたら、勝とうが負けようが「不利なルール」を押し付けることも押し付けられることもしたくはないのではないか? 平等なルールの下で、フェアなルールの下で生きてゆくことを、あなたの「理性」はあなた自身に要請してはいないのであろうか?
 確かにこれは「習性」である。ほとんどの人がそれと気づかないように、無意識の奥に沈んでしまっていて、私たちの表面的な行為のルールを、根底で制限する「メタ・ルール」として働いているのである。無駄な戦いを避けるために、一度「力関係」が決定したら、勝者は「生きてゆくのに有利なルール」の下に生きてゆけることを敗者が認めることで、繰り返される争いを一度で終わらせるために身につけた動物の「習性」なのである。だが、この習性は「理」に適っている。エサが豊富ではない環境の中で「群れ」を作って暮らす動物が持つ「習性」として考えたら、「無益な争いを避ける」という大きな有効性もあるのだから、とても「理」に適っている。だから、この「習性」を動物たちに授けたのは、間違いなく「理性」である。動物たちの「理性」がこの「習性」を授けたのである。

 この「習性」のおかげで、人は「争い」を繰り返して、社会からは「競争」するように義務付けられている。人が人と「争い」を始めたのは、今からおよそ1万年前、狩猟採集生活をしていた人間が定住して農耕を始めた頃だという。この1万年の間に、人は動物さえも持っていない習性を身につけている。「攻撃性」「残虐性」「残酷性」などである。一度「力関係」が決定したら、勝者は「生きてゆくのに有利なルール」の下に生きてゆけることを敗者が認めることの目的は、無益な争いを繰り返さないためであるし、群れの仲間を必要以上に傷つけない、殺したりしないためである。「力関係」に決着が付けばいいから、どちらかが「参った」といえばそこで争いは終わるのである。だが、人間は争いを始めた当初から、今の動物たちもまだ持っていないものを持っていた。「武器」である。本来なら狩猟採集に道具として用いられるものが、「武器」として使用されたのである。「石斧」や「投擲具」、自然の中にころがっている普通の石や棒きれさえも、人は手にして戦ったことであろう。だが、「素手」では傷つけ合う程度の争いが、「武器」を手にした途端に死闘になってしまう。皮肉なものだ。突出した「理性」があるゆえにたくさんの「道具」を持っていた人間が、その「道具」のおかげでちょっとした諍いさえも、死闘になってしまうのだから。人の争いは命懸け、なのである。父や母や兄弟や、共に暮らす仲間たちが無残に死んでゆくさまを見ながら、人間は生きてきたのである。癒せないほどの傷を負わせる争いなど動物でさえ決して行わないというのに、無残に殺し合う争いを人間は繰り返してきたのである。理性や知性があるゆえに、他の動物に比べればはるかに感受性に優れて情動的である人間が、そんな様子をまざまざと見せ付けられることで養ったもの、それが「攻撃性」「残虐性」「残酷性」である。動物の中にはこれらの性質を持った生き物は、皆無である。むやみに生き物を殺す動物は、自然の中にはたったの1種類もいないし、残虐なことをする動物も、残酷なことをする動物もたった1種類もいないのである。
 国家が武力であれ経済力であれ、「力」をつけたら、それまでの「ボス」に戦いを挑むのは当然である。なぜなら、今の自分たちに押し付けられているのが「不利なルール」だからだ。もし、そうでなかったとしても、挑戦して勝者になったら「有利なルール」を獲得できるのだから。また社会では、「競争」をして勝者になったものだけが「有利なルール」で生きてゆけるのだから、人生の節目節目では「競争」をして、とにかく「順位」を決めてもらわなくてはならないのである。また、上位のものとの「力」の差が小さくなったら、やっぱり戦いを挑んで順位を逆転しようとするのである。なぜなら、今押し付けられているのが不利なルールだからだし、勝てばより有利なルールを獲得できるからだ。そして、そうすることが「習性」だから、である。

 私の理性はこのことに気づいたから、「争い」には参加しない。星の世界のルールを我が行為のルールとすることを決めた人間には「一方的に有利なルール」とは「歪んだルール」のことであって、そんなものを手に入れたいとは思わないのである。物理法則は、「力」の大小、「質量」の軽重、などが異なってもルールの変わることのないルールである。「太陽」でさえ、特権を有していないのだ。そのことを知っている私は、「特権」を獲得する「争い」には参加できないのである。それゆえ、私はこの「習性」を私の中から排除してしまった。5年以上の歳月を掛けて、自ら訓練してこの習性を排除した。
 自分の従っているルールに気づくことはむつかしいものだ。世界中の人が、この習性を持ち、それと知らずに生きている。「権力者」「金持ち」「偉い人」「上司」など、自分より「力関係」の上の人の命令には従うものだと決め付けて生きている。そいう人には媚びへつらって、少しでも「力」を分けてもらえぬかと生きている。そして、そのようにしてまでも自分自身もまた「力」を獲得して「有利なルール」の下に生きてゆきたい、と考えているわけである。神も仏も「力」を授けて欲しいが為に拝むのである。絶対的な「力」を持つ神や仏の力をほんの少しでも分けてもらえないかと拝むのである。世界中の人が「生きてゆくのに有利なルール」のもとに生きてゆくことを望み、「力」の獲得に明け暮れている。親は子を塾へ通わせて、いい高校、いい大学、いい会社へ入れと言って「力」の獲得を促す。この間まで内戦でボロボロだった国の国民まで、平和になった途端に社会の競争に勝つことばかりを考えている。
 だが、その傍らで、最も不幸な事態が数多く起こっている。世界が決してより良きものとはならない最悪の事態が起こっているのである。この宇宙は「法治フィールド」である。ルールが妥当であることと、それが遵守されていること、それだけが世界に高い秩序をもたらして、世界を安定して保つたった一つの方法なのである。力のある大国が、世界を安定させてくれるわけではない。大きな権力や財力が世界を安定させてくれるわけではない。なぜなら、生き物にとって「力」の多寡は「秩序」とは関係がないからだ。秩序は、あくまで人がルールを守ってこそ生まれるものである。「力」では、生き物には「秩序」を与えられないのである。そして人にルールを守ってもらうためには、「ルールそのものが妥当である」ことが絶対に必要なのである。金でほっぺたをはたいている間は、人は言う事を聞いてくれるかもしれない。権力の座についている間は人は言う事を聞いてくれるかもしれない。だが、人を従わせているのが「力」であるなら、それを失ったら人は言う事を聞かず、ルールを守ってはくれなくなるのは当然のことである。人がいつでもどこでも、本当にルールを尊重するようになるためには、まず自分に課せられているルールが妥当でなければならないのである。なぜなら彼の中には「理性」があるのだから、自分に課せられたルールが不当なルールである人が、ルールを尊重するようになることなどありえないではないか。不当なルールを守らされているがゆえに、貧しさや屈辱に甘んじてるというのに。どこの国でも「国法」など、誰も関心を持たないものだ。昔から「お上」や「幕府」や「将軍」などの権力者が不当なルールばかりを人に押し付けてきたからだ。人はこの習性のおかげで、人が自分に与えるルール、勝者が敗者に与えるルールがどんなに不当なものかを身をもって知っているのである。だから、誰の心の中にも「国法」を尊重する意志など微塵もないのである。愛国主義者でさえ、他国の排除は声高に叫ぶものの、「国法を尊重することが本当の愛国精神だ」と思っている人はいないのである。
  人には理性があって、その理性が不当と判断するルールだらけの世の中で、誰がルールを尊重するものか。人がルールを尊重せず、自らの力の獲得にばかり走っている世界が、この先どうなるかなんて目に見えている。「格差」だのという問題ではない。「理性」を持つ人間が、未だに「ルールを尊重する気持ち」を全く持っていないのが大問題であるし、この宇宙に全くふさわしくない歪んだルールで構築された私たち人間の世界全体が、この宇宙には全くふさわしくないものなのである。
 人にある「理性」、この宇宙を作ってきたのとおなじ「理性」は、この「習性」のおかげで、人を「野生」から連れ出したくても連れ出せないでいる。私たちの中にある「理性」は、「野生」の世界から、この宇宙の真の姿である世界、「理性」の世界に私たちを導こうとしているのに。
 
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