U 理性が教えた真理について  
     
   7. 「空」の真実(1)  
    私は科学主義者ではあるが、神秘主義関連の本もたくさん読んだ。だが、さっぱりわからない。普通の人なら、わからないことで「真理」の難解さに感心するのかもしれないが、そんなサービス精神を全く持ち合わせていない私は、価値がないと判断して、あっさりと捨ててしまったのである。
 前項で私は、人の中にある習性についてお話した。ここで書いたようなことは、聖書や仏典はもちろんのこと、「バシャール」も「神との対話」の神も、クリシュナムルティも、パグワンなんとか言うグルも、ケン・ウィルバーもO川R法も語っていない。だが、みなさんがもし、世界をよりよきものにしたいのであれば、この「習性」にお気づきにならないといけない。「真理」などを知ることよりも、この「習性」にお気づきになることの方がよっぽど大事なことなのである。それに、本当に「真理」をお知りになりたいのであれば、「物理法則」を勉強なさるのが一番良い。この宇宙を作る根本的なルールがどんなものかをお知りになって、そのルールによって実際に組み立てられ、維持されている「星の世界」をご覧になって、そして何よりご自身がお持ちの「理性」の言葉に耳を傾けられて、探求をお進めになれば、神秘主義者が語るよりも具体的でわかりやすい究極の真理を手に入れることができると思う。それでは、みなさんが、今述べたような探求を開始されたとして、最後に見つける「真理」である「空」(シュンニャータ)についてお話しするとしよう。
 では、大言壮語の極みをご披露するとするか。

  觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
 舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
 舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不摯s減。
 是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
 無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
 以無所得故。菩提薩?。依般若波羅蜜多故。心無?礙。無?礙故。無有恐怖。
 遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
 三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
 故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不?故。
 ?般若波羅蜜多咒即?咒曰
 ?帝?帝 般羅?帝 般羅僧?帝菩提僧莎訶
 般若波羅蜜多心經 (「?」は字が出てこない。まぁ本文はどこにでもあるから、ご自分で
            確認してください。)

 通訳:観自在菩薩(アヴァローキテーシュヴァラ菩薩)が深遠な「真実智」の完成を目指して、
    深く行を行っていたその時、物質的現象には5つの要素があることを悟った。
    そしてまた物質的現象は全て「空」であると悟ったのである。

    (この悟りによって、人間から一切の苦厄が取り除かれた。この部分は玄奘さんの
     書き込みらしい)

    シャーリプトラよ、物質的現象は全て「空」である。「空」は全て物質的現象である。
    物質的現象の構成要素である 「受」(感覚)、「想」(表象)、「行」(意志)、
    「識」(知識)もまた「空」である。

    シャーリプトラよ、物質的現象で構成されるこの世界は全て「空」であり、
    (「空」だからこそ、)生じるということもなく、滅するということもなく、
    汚れることもなく、汚れを洗い落とすこともなく、
    増すということも、減るということもないのである。

    世界が「空」であることを知ったならば、物質的現象というものは無いし、
    他の四つの構成要素も無いし、
    感覚器官というものも無いし、感覚器官が捉える対象もない。
    目が捉える世界から意識が捉える世界まで、そういうものが何にも無い。

    だからこそ、「無知」である事もなく、また「無知」が無くなることもない。
    老いたり死んだりすることもなければ、老いたり死んだりすることが無くなることも
    ない。苦を取り払う方法も無ければ、知恵を得ることもない。得るものなど何もない
    のである。

    求道者はこの悟りによって、その心は安寧し、何かに因われるということがない。
    心が何かに囚われるということがないから気が動転したり、具にもつかない夢想に
    ふけることもないのである。それゆえ、彼は悟りにいたる。

    三界の佛はみな、この教えを知っているから、いつも最高の境地の中にいるのである。
    だから、この教えは最も尊い、最も偉大な、並ぶもののない最高の教えである。
    そしてこの教えは一切の苦厄を取り除く、真実の智慧なのである。

    さぁ、修行僧たちよ、修行に励め、修行に励め、どこまでもどこまでも修行に励め。
    これが最高の真実の智慧である。

 とまぁ、こんなふうになる。馬鹿でなければ、このお経の中で大切なことが何であるか、知らなくてはならないことが何であるかぐらいはわかる。私たちが悟りを開いて知らなければならないことは@「空」とは何であるかであり、A「物質的現象が全てその『空』で出来ていること」であり、ということはB「この世界が、この宇宙が全て『空』である」ということだ。これが、知らなくてはならない大切なことである。



@「空」を理解する。


 空とは何であるか?
 @「空」とは、どんな制限も全く受けていないものである。
 A「空」とは、どんな制限も全く受けていないが故に、「完全に自由」であるものである。
 B「空」とは「完全に自由」であるがゆえに、「完全に無秩序(完全なカオス)」なもの
  である。


 
ほいほい、これが「空」の正体です。まずは、誰も言っていないだろう? こんな言葉は。みなさんが、全く聞いたことはない言葉で「空」について話しをするのは、この「空」が物理学を探求しながら私の「理性」において捉えた「空」であるからだ。だから、これから私は、みなさんが今までに全く聞いたことのない言葉で、全く聞いたことのない論法で「空」を説明する。
 
 みなさんは、物理法則にも化学法則にも、生物学の法則にも全く興味がないだろうから、この世界にはどれだけのルールがあるかをご存知でははない。また人として生まれた自分が、無意識のうちに身につけたルールがどれだけあってどんなものかについてもご存知ではない。まず最初に、言っておこう。この宇宙にある存在は全て、たった一つの例外もなく「ルール」によって制限されたものしかない。つまり、制限されていないものがこの宇宙にはたったの一つもないのである。これは当たり前だ。「物理法則」というルールは「普遍性」と「絶対性」を有しているから、この宇宙にあるものならば何でも、最小限「物理法則」によって制限を受けているはずである。

 とはいえ、この宇宙にはたった一つだけ、ルールによってもその他の方法によってでも、とにかく何の制限を受けていないものがあるのだが、それについて話そう。みなさんは「理性」をフルに活用して、良く良く考えながら付き合っていただきたい。
 @「ルール」の意味や価値について考えると、「他者」を持たないものが「ルール」に
   よって制限を受ける必要性が全く考えられない。

 どう言う意味かお分かりになるであろうか? みなさんがこの宇宙でお一人だけいて他には何にもないとしたら、みなさんは「制限」される必要性があるだろうか、ということである。これがないのである。どう考えてもないのである。他者、つまり自分が影響を与える可能性のある自分以外のものが全くないというのであれば、自分が制限される必要性など全くないということなのだ。
 分かっているかな? みなさんの理性は、付いてこれているかな? 

 A逆に、自分が影響を与える可能性のある自分以外のものがあるときは、自分自身が
  なんの制限も受けないこともまた全く考えられない。

 またまたお分かりになりますか? 簡単に言うと、お互いに壊すことができる相手といるときには、お互いの間に「ルール」などの制限するものが絶対に必要であるということだ。なかったら、壊れてしまうから、である。まぁ、ルールの本来的な意味からしたら至極当然のことである。交通ルールなんていりません、とは誰も言わないのと同じことだ。なかったら、えらいことになるのは目に見えている。「物理法則」は完全にこの理性の要請に答えていて、お互いに影響のあるものどうしのあいだでは、確実に物理法則が機能するようなメカニズムになっている。この宇宙が有する全時空において「物理法則」が機能して、たった一つの例外もなくすべての存在が制限を受けているということは、この宇宙は、お互いに影響を与え合うことが確実なものだけで構築された世界だということだ。つまり、全く関係のないもの、みなさんが良くお使いになるところの、全く関係がないという意味の「他者」も「他物」もこの宇宙の中にはたったの一つもない、ということなのである。

 それで、結論なのだが、「制限」を受ける必要があるのは、他者、つまり自分が影響を与える可能性のある自分以外のものがある場合に限られるということであり、逆にもしそういうものがたった一つでもあるのであれば、お互いに制限されないことの方がおかしいということである。
 だから、とにかく全く制限されていないもの、「他者」を全く持たないものを探してみよう。

 あった! あった! もう見つかった! それは「全体としての宇宙」だ! 

 全体としての宇宙は「事象の地平線」と呼ばれる、そこから外側には何の影響も与えることができない境界(普通の意味での境界をイメージしないでほしい、そんなものがあるかどうかさえわからないのだから)で囲まれているから、「他者」がいないのである。だから、「全体としての宇宙」はたった一つの制限も受けてはいない。たった一つの制限も受けていないのだから、完全な自由である。また、何の制限も受けてはいないのだから、当然ルールなんかもない、ルールがないのだから、そこにたった一つの規則性も見いだせるはずもない、つまり「無秩序」それも完全に「無秩序」なものだ。つまり、「全体としての宇宙」は「空」なのである。まぁ、でも「全体としての宇宙」が「空」で良かった。何せこいつは、今でも加速度膨張をしているから、周りに何かあって、それに影響を与えるとしたら偉い迷惑である。でもこれが「空」のおかげで、影響も全く与えないので安心というわけだ。

 宇宙の中にいる私たち、宇宙の部分として存在する私たち、そしてこの宇宙にあるすべての存在は数多あるルールによって制限された存在ばかりである。しかも進化と共に制限するルールの数は増加する傾向にさえあるかもしれない。なのにだ。何と全体としての宇宙は、未だに何の制限も受けていなくて、完全な自由のままであって、完全なカオスのままなのである。不思議でしょう? だから、全体としての宇宙がカオスのままだということは、何も学んでないし、何も進化していないし、生きるも死ぬも、あるもないも、何にもないということなのである。

 さて、未だにあると推測される「空」を一つだけは見つけたので、ゴーダマさんは、今は「全体としての宇宙」におられる。宇宙の内部にあって、宇宙の部分であるものは、残念ながら全て「輪廻」からは逃れられない。星や銀河に生まれたとしても、生老病死(病はないが、不測の事態ならあるかもしれない)の中にいる。だが、「全体としての宇宙」ここだけは確実に「輪廻」の外なのである。だからここが「涅槃」であり、ゴーダマさんはきっとここにいる。でも、彼の智慧も知識もそこには何にもないのだが。

 みなさんが、いくら頑張って「全く制限されていないもの(つまり、無制限なもの)」「完全な自由」「完全なカオス」であるものがどんなものかと想像しても、とてもイメージすることなんかできはしない。そういうものは、この宇宙の内部にはたったの一つもないのであるから。ただし、ちょっとだけそれに近いかなぁと思われるものはある。でも、それとて、制限を受けていないわけではないから、やっぱり少し違うかもしれない。でもまぁ参考のために言っておこう。シュレディンガー方程式に従っている、観測される以前の電子。放出されて、三次元球面上に広がって進む電磁波。この二つをイメージできれば、多少は「空」のイメージに近づくかもしれない。だが、この二つは「数式」ではうまく表現されているものの、物理学者の中にも誰ひとりとして頭の中にイメージできる人がいないのが現状だ。どうしてこれが、「空」に近いかといわれると、制限を受けているルールの数が少ないからだ。電子は、「シュレディンガー方程式」という波動方程式に従っているだけだし、電磁波は「マックスウェル方程式」に従っているだけだ。とはいえ、これらのものはごらんのように「ルール」に従っているから、既に制限を受けているものだ。だから、全然違うものであるかもしれない。まぁ、みなさん頑張ってイメージしてみてください。



A「空論」を理解する。

 さて「空」の正体がわかった? ところで、次に進もう。次は「空論」全体の理解だ。いよいよ、私やみなさんの真の正体と、そういうものがこの宇宙を作り上げる全体的なメカニズムを理解してみよう。

 「全体としての宇宙」は「空」だ。だが、これはじつは「空」について考えるときの方便であって、実際の宇宙には全体という言葉は当てはまらないのである。なぜなら全体とは外部があってこそ言えることであって、外部を持たないこの宇宙には本当は「全体」はないのである。でも「空」を考えるときには都合がいいし、ゴーダマさんのいる「涅槃」とやらも簡単に理解できるので、便利な考え方ではある。だからと言って、本当の意味での全体がないわけではない。だが本当の意味での全体は137億年前にもうなくなってしまったのである。この宇宙は、心太(ところてん)のように木箱の中に詰められていた寒天みたいなものが、外へぎゅっと押し出されて出来たようなものなのだ。そして押し出される以前の状態、木箱の中に寒天としてある状態がこの宇宙の本当の「全体」であり「空」なのである。だからゴーダマさんは時間をどんどん遡って、開闢前の宇宙にいる。ここが本当の「涅槃」なのである。でもここもやっぱり知恵も知識も全くないのだが。
 まぁゴーダマさんの話はこれぐらいにしといて、つまり、私もみなさんも元は木箱の中にいたのだから「空」だ。それは「制限されないもの」であり「完全な自由」であるものであり、「完全なカオス」であるものだ。わかりやすく言うと、完全な無知で、完全な無明で、完全な大馬鹿者で、あほうの極みであったということだ、だが一ついいことは完全な自由をもっていたことだが。その、木箱の中から押し出される時に、心太なら細い銅線か何かがたくさん張ってあって、あの四角い形の心太になるのだが、宇宙の木箱には「ルール」という名の銅線が、たった一本張ってあるだけなのだ。このルールのことを物理学者は「スーパーストリングス理論」あるいは「超弦理論」と呼んでいる。
 そしてここでもう一つ、方便を的確な表現に直さなくてはならない。それは、今まで私は、他者がいるから、ルールが必要であるという論調で話してきた。だが、本当は違うのだ。「ルール」ができると「他者」が生まれてしまうのである。
 「他者」がいるから「ルール」が必要なのではない、「ルール」が必要だから作ったら、必然的に「他者」が生まれてしまうのである。
 これも知らなかったし、誰からも聞いたことがないだろう。では説明しよう。みなさんは物差しを使っているし、尺度と言う言葉も知っているだろう。普通に使っている物差しなのだが、あれは「ルール」をあてがって、モノの大小や長短を決めているのである。大と小の区別、長と短の区別はルールによってもたらされているのだ。物理学では特定のルールが作用する場所を「ゲージ場」と呼んでいるが、「ゲージ」とは物差しのことである。「ゲージ場」にルールがあることで、そのルールに従うものと従わないものの区別ができるし、同じ従うものでも、引き寄せられるものと反発するものの区別ができる。尺度とは物事を評価するときの基準のことであり、基準(英語でstandard,regulationでどちらもルールのことだ)とはルールのことであり、このルールをあてがうことで、様々なものの良否や合不合などの区別が付けられているのである。そして、自分が属する方の区別を「自」と呼び、異なる区別の中にいるものを「他」と呼んでいるのが私たち人間なのである。どうだろう? お分かりになったであろうか? ルールが区別を付けたら「他者」が生まれるだろう? 
 さてルールがなければ区別が付かないのだから、ルールによる制限を受けなかった木箱の中にいる時の私もみなさんもそしてこの宇宙にある全てのものは、全く区別の付かない完全に同じものであった。
 物理法則は、たった一つのルールから、後は数学と同じ「演繹」という方法で構築されてゆくルールだから、数学と同じようにルールどうしの整合性の良い、無矛盾な体系を為すルールの集まりである。そして物理法則は確かにあれとこれの区別は付けるが、分けられたものは全て同等の価値を有する全く同等のものである。なぜなら、物理法則は量的に表されるすべてのものを保存するからである。物理法則は、目の前にある丸いケーキをいつも「対称性」を考慮に入れて切り分ける真っ直ぐなナイフのようなものだ。つまりルールを敷設することで区別はできるが、分けられた二つのものが同じになるようにしか、物理法則はルールを敷設しない。だから物理法則が丸いケーキを切るのはいつも直径と呼ばれるところであり、ナイフを入れた両側の面積や重さなどが全く同じようになるようにナイフを入れるということだ。ナイフを入れることで丸い全体が二つの半月型になっても、二つの半月型には全く違いがないのである。これが物理法則の持つ「対称性」と呼ばれる性質である。
 もうひとつの「対称性」もある。カオスは混沌と訳されていて、コスモス(=秩序)の反意語だから、あまり良い印象は受けない人が多いかもしれない。だが、それが私たちの本来の姿であるし、ルールによって制限されていないから、「完全な自由」を有しているし、それにもう一つカオスは「完全な対称性」というものも有しているのである。「完全な対称性」とは、簡単に言えば「どこも全く同じ」ということなのだが、この「どこも全く同じ」であるものに、ルールをかけると「どこも同じ」がそうでなくなるのである。先ほどのケーキの例で言えば、物理法則によって切られる以前の丸い全体は、切られたあとの二つの半月型に比べれば大きな「対称性」を持っている。なぜなら切られる前はケーキの端は全て「円」という曲線であったが、切られた後の半月型には「曲線」と「直線」が出来てしまった。「どこも全く同じ」が少し減っただろう? このようにルールによって切られてゆくたびに「どこも同じ」が少しづつ減ってゆくのである。そしてこの「どこも同じ」が少しづつ減った分だけ、「どこか違う」ものが少しづつ、この宇宙の中には増えてゆくというわけなのだ。カオスは完全な対称性を持っていた。それは私たちの最初の姿であり、どこも完全に同じであった。そこにルールがナイフのように切り目を入れるたびに、もとあった対称性は失われて、「どこも同じ」だったはずであったのに、「どこか違う」ものが生まれてくる、それがこの宇宙にはいろんなものがたくさんある事の基本的なメカニズムであり、宇宙が進化してゆくことのメカニズムなのである。(「対称性」に関するごくごく大雑把なアナロジーであって、「対称性」は実はもっと奥の深いものである。)

 星の世界は美しい。物理法則は「対称性」を考慮に入れた真っ直ぐなナイフのようなルールなので、そういうルールで作られた星の世界は、どこをとっても美しい。生き物は美しい。生物法則も、「対称性」を考慮に入れた真っ直ぐなナイフのようなルールなので、そういうルールで作られた生き物は美しい。私はそうでもないが、みなさんはみんなとても精悍でお美しいことであろう。
 だが、人間社会は醜い。人間社会にあるルールはどれもこれも「対称性」など全く考慮に入れない、「くの字型」のナイフのようなルールなので、いつも誰かが得をしたりいつも誰かが損をする、そういうナイフで作られた社会は醜いのである。
                                (次項に続く)
 
 
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