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   U 理性が教えた真理について  
     
   8. 「空」の真実(2)  
   さて、この宇宙が持つ最も基本的なメカニズムについてお話ししたので、もう少し身近なことについてお話しすることにしよう。仏教で言う「縁」と「因果」についてである。仏教では「空論」の大方の中身を占める大切なことである。ただし、仏教では私たち人間を「特別なもの」として扱っているが、私はこの宇宙は特別を嫌っていて、決して何ものにも「特権」を与えたりはしないと思っているので(というより、私は、この宇宙にあるすべての存在の原初が「カオス」であって「完全に同一なもの」であると言っているのだから、人間を特別扱いできるわけがない。)、そこのところで仏教と私の説では隔たりがあることは否めない。例えば、「善因善果・悪因悪果」などと仏教では言うけれども、この自然の中には(つまり人間社会の外には)、「善」もなければ「悪」もない。また宇宙全体に敷設された「物理法則」は「完全性」を有しているので、ルールを破ることのできないルールである。加えて生物法則もまた、ルールを破ることができないルールであり、生物は種ごとに「習性・本能」といったルールに拘束されていて、これも容易く破ることができないから、「自然」の中にはルールの逸脱はないと考えて良い。だから、人間以外の存在は与えられた「ルール」をかたくなに守っている存在ばかりだということだ。だからこの宇宙で「人間」だけが唯一ルールを破ることで「罪」となり、「罰」を与えられる存在なのだ。確かに人間には「理性」があって「法治フィールド」であるこの宇宙の中で、ルールそのものを扱えるのだから、それはそれは大層特別なことである。他の生物は、長い年月をかけなければ「習性」と呼ばれるルール一つ変えることができずに、ルソー先生が言われるように、猫は空腹で死にそうになっても自分に与えられた「食性」を変えることができないので、コメ俵の上で餓死するのである。しかしながら、「理性」が突出していることだけで、人間を特別扱いすることはできない。なぜなら、「進化」は「突然変異と自然淘汰」が基本であるからだ。自ら意図せず「偶然手に入れたもの」を誇りにする人の気持ちは理解できない。私は、そんなものを「誇り」にはできないのである。
 
 というわけで、私が「縁」や「因果説」を説いても、「善悪」は出てこない。「罪」も「罰」も出てこない。そこのところを了承しておいていただきたい。
 この宇宙では、「ものそのもの」について、語ることは基本的にはできない。「ものそのもの」は「空」であり、「制限されないもの」であり「カオス」であり「自由」であるものだからだ。そこで「現象」として私たちの感覚器官が捉える「存在」ならば、語ることができる。つまり、「現象論」としてなら、モノは扱えるというわけである。

 そこで、まず基本的なことを知っておいてもらいたい。この宇宙にある「モノ」は、「素粒子」と呼ばれるものでできているのであるが、素粒子には、2種類ある。緑色と青色のマスに書かれた素粒子は「フェルミオン」と呼ばれて、緑のマスのクォーク族は原子核を形成し、青色のマスのレプトン族は原子核の周りにある電子の仲間である。普通の物質では、アップ(u)とダウン(d)と呼ばれる二つのクォークが三つ組み合わされて原子核の部分である陽子(uudの組み合わせ)と中性子(uddの組み合わせ)を形成している。また、通常の物質では原子核の近傍にあるのはレプトンの中でも電子(e)だけだ。これらクォーク族とレプトン族はフェルミオンと呼ばれるグループに入る、フェルミオンは「パウリの排他律」と呼ばれるルールに従っていて、量子数と呼ばれる素粒子の性質を表す指標が全く同じものは、同一の時間に同一の空間を占めることはできない。つまり、全く同じものは、同じ場所に重なり合って存在することはできないということだ。
 一方で、赤色のマスの右側には「Force carriers」と書かれている。これは、「力の伝達粒子」という意味だ。これらの粒子はボソンと呼ばれて、文字通り「力」を伝達する。代表的なものがフォトン(光子)だが、これら力の粒子は「仮想粒子」と呼ばれて、実際にお目にかかることはできない(と思ってもらってかまわない)。
 宇宙にある全ての存在―星も生き物も私もみなさんも、たった一つの例外もなく、すべての存在―は、フェルミオンと呼ばれる物質粒子をボソンと呼ばれる力の粒子がくっつけることで出来上がっている。それに、物質粒子の全ての変化や運動は、力の粒子が原因で起こっている。物質粒子については、別に問題はない。それは時空のある一点を専有しているのだから、とても小さな粒子が全く普通の意味で「存在する」と言って差支えはない。しかし、力は「存在する」か? これには普通の存在の定義が当てはまらない。磁石の周りに磁場は存在するか? と問われたら、今の人なら磁場があることは知っているから、磁場はあると言うことはできるが、果たしてそれが、私やあなたが「存在する」のと同じ意味なのだろうか? そこで、カール・ポパーという思想家は、この状況をこういう言葉で説明した。 「力は存在する、それは、(物質粒子に)影響を与えることが確実であるという理由で存在する」、と。
 というわけで、宇宙の存在は全て、時空の一点を専有する普通の意味で「存在する」物質粒子(フェルミオン)とそれら物質粒子に影響を与えることが確実であるという理由で「存在する」力の粒子(ボソン)で出来ていて、物質を組み立てる糊の役目と変化や運動を引き起こす役目は全て「力の粒子」が担っているということなのだ。
 人間は太古の昔から、精神と肉体とか自然の中にいる精霊とか、見えるものと見えないものという具合に世界を二元的に捉えてきた。そして、現代の物理学においても同じように存在や現象が「物質」と「力」というものでできていることを突き止めたのだが、「力」はあくまで「仮想粒子」であって、実際には見ることも触れることもできないものなのだ。私もあなたも地球とのあいだに働いている重力の影響を受けているのは知っているが、重力って見えないでしょう? それと同じだ。
 つまり、仏教で言う「因果」について言うならば、「原因」は常に「力の粒子」であり、「結果」は常に「物質粒子」である、ということだ。そして「力の粒子」は「物質粒子」をいつもルールに従って組み立てて、ルールに従って動かしている。
つまり「因果」、「原因」と「結果」の間には「ルール」があり、「ルール」によって制限された結果しか生じない、ということだ。
 お分かりになられたかと思うが、この因果の間にある「ルール」の中に、仏教をはじめとする宗教の多くが、「人間特有のルール」がたくさんあるとしているのである。その一つが、「善因善果・悪因悪果」であるが、私はそうは思っていないのである。私は、自然科学によって見出された「法則性」のあるルールだけが「因果」の中にあるルールとしてあって、「人間特有のルール」などは全くないと思っているということだ。偶像崇拝は悪いことだと教えられているイスラム教徒が、岸壁に掘られた仏像を爆破しても、それを悪いことだと思っているのは、偶像崇拝は悪いことではないと教えられている宗教の信徒だけだ。だから、仏像を破壊したイスラム教徒は、仏教徒からすれば悪いことをしたので地獄に落ちるべきであるが、イスラム教徒からすれば善いことをしたので天国に行くべきであるのだ。国家の命に従って戦争に行った人は、英霊として祀られても、人を殺した罪で地獄へ落ちるべきである。なぜなら「汝、殺すなかれ」はすべての宗教と道徳が最も根底に持つ「ルール」であるから、それを破った人は最も大きな罪を犯したことになるのである。だから全員地獄へ落ちるのは当然だ。つまり、私たちの祖父母の世代で戦争に行った人はみんな、地獄へ落ちるのである。「人間特有のルール」を「因果」に持ち込めば、こういうことになってしまうのであるが、どうしたもんであろうか? だから、私は「因果」の中に「人間特有のルール」があることを認めないのだ。人の世界は、「自分勝手に構築したルール」で出来上がった世界である。仏教も、キリスト教も、イスラム教も、そしてどの国の法律も、どの企業の社則も、個人個人が持っている「格率」と呼ばれるルールも、全てが「独善的」か「局所的」なルールである。どのルールも、「この宇宙で正しいとされるルール」の物差しをあてがって、それに照らし合わせて作ったルールではない。この宇宙で正しいルールとされるものは「相対性原理」を満たすものだけでり、「法則」と呼ぶにふさわしいものだけなのだ。



 「因果」について理解してもらったところで、次に「縁」について話そう。先ほどの素粒子表をもう一度見て欲しい。ここに書かれた素粒子すべてが、実は、それ自体としては「波」として振舞うものなのである。フェルミオンは「シュレディンガー方程式」に従って運動しており、「シュレディンガー方程式」は「波動方程式」である。ボソンは、「マクスウェル方程式」に従って運動しており、「マクスウェル方程式」は「波動方程式」である。
 昔の人が物質の根源を探そうとしたとき、誰も「波」として振舞うものがその根源だとは思わなかったはずだ。なぜなら、そんなものは世界の中にほとんどないからだ。ほとんどすべてのものは、ちゃんとそこにあって、触れることができるものだ。どこにあるかもはっきりしない「波」のようなもので世界ができているとは誰も考えたりはしないではないか。力の粒子であるボソンは構わない。なぜなら、それはいつでも今の今でも波として振舞っているからだ。力の一つである「光」は電磁波と呼ばれる波の一種であり、光には波として振舞うものの特徴である「干渉」や「回折」の現象があるが、これは小学生レベルの実験でもすぐに観察できる。それに、昔から「力」という言葉は概念だけしかなく実体のないものであったから、力が直接見えないことにも違和感はない。今でも重力は誰にも見えていない。そして、誰でもが重力によって地球に引っ張られているとは思っていても、「万有引力の法則」というルールによって自分自身が制限を受けているとは誰も思っていない。これらのことから、力が波であるのは全然構わないのだ。だが、存在の元になる素粒子、つまりフェルミオンと呼ばれる物質粒子の方までも、波として振舞っていることは大問題だ。なぜなら、私は波として振舞っていないし、エネルギーが移動する媒質として波として振舞っているものならあるが、自ら波として振舞っている「存在」などこの世界の中に何一つないからだ。だから、話はややこしいというのだ。
 量子力学によって発見されたこの奇妙な事実によって、物質粒子までも本来は波として振舞っているものであることになった。すべての物質は粒子性と波動性を合わせ持つ、というのが量子論的事実である。では粒子性と波動性を併せ持つものとは一体どんなものか? そんなもんは知らん。物理学者さえ知らないのに、私が知っているわけがない。だから、「モノそのもの」の話はしても埒があかないのである。あまり深く入り込むと「カオス」の淵に落ちてしまうのでこれぐらいにしておこう。
 私たち人間が観察する限り、世界のほとんどは普通の存在=「宇宙の時空の中で特定の一点を占めて存在するもの」でできているようなので、とにもかくにも本来波として振舞っているものでも、一点に存在することになってもらわないことには普通の「存在」は出来上がらないし、世界は出来上がらない。そこで物理学者は、この「とにもかくにも」のところを、「波の収縮」ということにしてしまった。それは人間が「観測」することで波は収縮し、一点に収まるのだ、と。物質粒子が従っていたシュレディンガー方程式という波動関数は、「観測」した途端に、役目を終えたのかどうか、消えてなくなってしまい、あとには観測したので粒子となって一点に存在するものが残るというのだ。そして、その粒子がどこに残るか(出現するか)は確率的にしかわからない。シュレディンガー方程式によって表現される波は、「存在確率の波」と呼ばれ、粒子がどの場所にどれぐらいの確率で存在するかを表す波だという。そして、シュレディンガー方程式に適切な初期値とパラメーターを放り込んで計算すると、その粒子が波として振舞う軌道がわかる。原子の中にある電子の軌道はこうやって理解されて、メンデレーエフの周期律表の根拠が、そしてあらかたの化学現象のメカニズムの理解が格段に進んだのである。
 一方で、普段は「波」として振舞っている「光」の方でも同じようなことが起こる。光もまた「収縮」をするのである。光は電磁波の一種なので、伝播するときには「波」として振舞っている。マックスウェル方程式は、波動方程式なので、光が波として振舞っていることは間違いのないことだ。だが、その光が現象に与る(関わる)ときは、収縮をしているようだ。だが、それは物質粒子のように、「存在確率の波」が収縮するのではなく、波として広範囲にあるはずのエネルギーや運動量が、一つところに、「塊」として出現するのである。
 観測というのはおぞましいほど人間的な言葉なので、私は「観測」という言葉の代わりに「関係性の確保」という言葉を使うことにしている。何でもいいから「つながり」を見つけることができるというのが「関係性を確保」するということだ。また「つながり」を見つけたのだから、関係性の全くないことを意味する「他者」ではないことに気づくこと、でもある。物質の場合は相互作用することが「関係性の確保」である。
 ここで、この二つの場合について、ちょっと考えてみる必要がある。それはフェルミオンにしてもボソンにしても、「波」として振舞っているとき、その状態を「現象」と呼べるのかどうか、あるいは何か「現象」に関わっているかどうか、ということである。つまり、この宇宙に何か変化を起こしたりしているのかということなのだ。なぜなら、私たちの目には媒質もないのに「波として振舞っているもの」の姿が全く見えていないからだし、媒質のない波によって引き起こされるような現象も見たことがないからだ。具体的は、遠くの星から来る「光」が私やみなさんの網膜にあるロドプシンに影響を与えるまで、その「光」は何か現象に関わっていたかどうか、なのだ。また、シュレディンガー方程式に従っている間の電子は何か現象に関わっているのかどうか、ということである。結論から言うと、フェルミオンでもボソンでも、「波」として振舞っているときは、なんの現象にも関わっていないし、何の現象も引き起こしてはいないのである。では、「現象」となるには、何が必要なのか、物理学者が「観測」という言葉を使い、私が「関係性の確保」という言葉を使っているところの本当の意味は、『現象となるためには、同一のルールに従った最低一者以上の他者」との間に「相互作用」が開始されること』が必要なのである。つまり、私が言う「関係性の確保」とは、「自己」と「他者」のあいだが同一のルールで結ばれることを指し、この条件をクリアしない限り、お互いに「現象」とはならないのである。仏教では、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」というが、「此」と「彼」が生じるためには、この間に同一のルールがなければならないのである。(私の方が、具体的だろ?)とはいえ、この宇宙にあるものは全て「物理法則」という同一のルールに従っているものばかりなので、すべての存在はお互いに影響を与えること、つまり「現象」を引き起こすことができるのは間違いのないことだ。
 さて、私は、「縁」の中身もきちんと説明した。これも、「因果」の時と同じで、赤い糸だの、運命の人だの、ソウルメイトだのという「人の縁」というのを持ち込むとわけがわからなくなる。みなさんには、そっちのほうが興味があるのかもしれないが、人間は「独善的」に物事を考えることが非常に多いので、諸説紛紛をまともな考察の対象にしたらトラブルの元になってしまうであろう。とりあえず、そのへんのところは神秘主義者のみなさんに大いに頑張ってもらって、「人の縁」を具体的なメカニズムとして解明してもらい、そういうことに関わっていて知識をたくさんお持ちの大勢の方々に、批判と推敲を重ねてもらい、意見の統一を見たら、初めて私も議論に加わることにする。

 ついでだから言っておこう。上記に書いたのは「現象」を引き起こすための条件であって、「存在(全く普通の意味で、時空のある一点を占有して在ること)」するための条件ではない。この宇宙で存在するための条件は 「部分」を持っていて(「部分」で構成されていて)、それゆえ「全体」であり、その「全体」もまたより「大きな全体」の「部分」であること。(部分間のルールのうち、少なくとも一つ以上が同一であることが、部分の集合体を「全体」と呼ぶ前提だ。)
まぁ、2、3度丁寧に読んでもらえば、意味はわかってもらえると思うが、もしみなさんが、この宇宙にたった一人だけいたら、みなさんの中にある細胞や、器官は存在しても、みなさんは存在しない。自分の中にあるものが存在して、自分が存在しないなんてそんなことあるものかと、思われるかもしれないが、事実である。また、素粒子は単独では存在しない。また「全体としての宇宙」は存在しない。私たちは、みんな存在しないもので出来ていて、存在しないものの中に生きているのである。
 まぁ意味深だが、良く探求していただきたい、私達の原初が「カオス」であることを忘れなければ、たどり着くかもしれないなぁ。



 以上で「空」について、仏教がの述べている程度のことは、書いたつもりである。みなさんには、ここに書かれた言葉が、全く伝統的ではないことを評価していただきたい。スピリチュアルな伝統を、微塵も感じなかったであろう? 多分、宗教家も神秘主義者も、絶対にお認めにはならないと思うが、宗教の知識も神秘主義の知識も改善されないのだから、遅れてゆくのは当たり前のことだ。それに、宗教や神秘主義の知識の中には、「概念」だけの言葉、実体のないものを表す言葉がたくさん出てくるけれども、その数の多さでは「物理学」のほうがはるかに上なのである。物理学において大元であるような言葉である「力」や「エネルギー」でさえ、良くはわからないのである。「力」って何だ?って聞いたら、すべての物理学者は「そんなもんは知らん!」と言う。エネルギーとは何だ?って聞いたら、すべての物理学者は「そんなもんは知らん!」と言うのである。
 だが、すべての物理学者は、「力」や「エネルギー」がどんな現象と関わっていて、その現象の中でも具体的な何とどんな風に関わっていて、「力」や「エネルギー」がそれをどんなふうに変化させるのか、ということなら克明に話してくれる。物理学者は、「ものそのもの」には全く興味がなくて、「ものとものとのあいだにある関係性」についてだけ、興味がある人たちなのである。
 全てのものが、関係性の中にあるルールで結ばれていて、ルールによって制限を受けたものだけで構築されているのがこの宇宙である。だから、「ものそのもの」はみんな同じで、違っているのは「関係性」の中にある「ルール」だけなのだ。ただ「ルール」が違っていること、それだけでこんなに多様性のある宇宙を生むのである。
 
 般若心経では、般若の知恵を知れば、人の苦厄の一切を取り除いて、心には引っかかるものなどなくなって、安寧を得られて涅槃に行けると言っている。だが、そういうわけには行かんと思う。人の世の苦しみは、世界中に未だにたくさんあるのだが、そのほとんどの原因が他ならぬ人なのだから。
 最後にこれだけは伝わらなくても言っておこう。
 私もみなさんも元は「空」だ。それは「制限されないもの」であり「完全な自由」であるものであり、「完全なカオス」であるものだ。それは、完全な無知で、完全な無明で、完全な大馬鹿者で、あほうの極みであるということだ。そんな原初の状態からこの宇宙が開闢したのは事実である。だから、私は、この宇宙にあるものは全て、元は同じものであって、情けないほどみんな無知だったから、学びながらやってきたのだと思っている。そのことを知った上で、今この星での人間のありかたの多くは誤りだと思うし、人間同士が争ったり、残酷なことをしたり、殺し合ったりするのは、とても放って置けることではないと思う。私は人として生まれたのだから、きちんと解決しなくてはならない問題、克服しなくてはならない問題であると真剣に思うのである。良く学んで、どんなルールを人間性会に敷設すれば、このような事態になることを防げるか、と考えるのである。なぜなら、この宇宙は「法治フィールド」であるからだ。妥当なルールを敷設すること以外に問題を解決する方法はないからである。なかなかいい方法が見つからないのが事実ではあるが、できる限りのことはやってみるつもりではある。
 
 
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