U 理性が教えた真理について  
     
   9. 「自己」と「他者」  
   仏教では、「滅、我他彼此」と良く言われる。これも「ルール」に関することなので、ちょっと説明しておこう。これは、「自他」の間の「無差別」を説いた言葉なのであるが、前にも説明したように、「ルール」によって「他者」が生まれるのは必然であるし、「他者」との間に「ルール」があってお互いにそのルールによって制限を受けない限り、自分自身だけでは「現象」に与ることも、「現象」を引き起こすこともできないのだから、「他者」は「自己」にとっても、また「自己」は「他者」にとっても必要不可欠なものである。だから、「自他」は、物理学者が良く言う「相補的」な関係であり、どちらにとっても必要な関係にある。もし、人の誰もが、自分(「自己」)にとって「他者」は必要不可欠なものであることを知っているのであれば、「自己」は「他者」との「縁」を切れないはずであり、また傷つけたり排除したりはできないのだから、「共にある」ために、お互いにいつも妥当なルールで接しようとする。仏教が説くのは、「他者」なしでは「自己」が存在できないというこのメカニズムであって、このメカニズムを知らない人は、「他者」をごく普通の意味の「他者」、全く関係のない人やモノを表す「他者」にしてしまうのである。全く関係がないとは、一体どうゆうことかというと、自分の行為によっては相手に何の影響も与えることがないし、相手の行為によっても自分に何の影響も与えられることのない関係のことだ。お互いに何の影響も与えることがないのだから、そのような関係において自分の行為を制限する理由がない。だから、元々「他者」とは「ルール」を生じさせる必要のない関係であり、それゆえ例え、ルールを生じさせたとしても、基本的にはどんなルールでも良いのである。だから、全く関係のない「他者」に対しては「差別的なルール」であっても「理不尽なルール」であっても別に構わないのである。お互いにそうすることで、「関係性」そのものが破綻しても構わないのである。最初から、「他者」とは「縁」などない人なのだから。
 また、もし「自分」を特別なものとして、「自己」と「他者」の間に異なったルールを掛けるとしよう。異なったルールとは「差別的なルール」「理不尽なルール」のことなのだが、こんなルールをかけると、「理性」は相手を「他者化」するのである。なぜ、「理性」は「理不尽なルール」をかけた相手を「他者化」しなければならないのか? それは、自分の中にある「理性」が相手を「他者」にしないことには、自分自身を「正当化」できないからである。「他者」とは全く関係性のない人のことだから、関係がない人との間にはルールを生じさせる必要がないことを、人の「理性」は知っているのである。だから、人が人を「便利」に利用するときには、元々便利に利用する人を「他者」であるとして扱っている。自分とは関係がないから利用しても良い、と思うのである。「友」を利用するのは気が引ける。「家族」を利用するのも気が引ける。だが、「他者」は大いに利用しても良い存在なのである。そして、もし、私欲のために「友」を利用しようとすれば、今度はいきなり「関係性」を変えてしまうのである。「あんな奴は、友達でも何でもない!」と言うふうに。「友」であるから、守っていたルールを守らなくて良い口実は、相手を「他者化」して、ルールそのものを生じさせないで良い関係にしてしまうことなのだ。だから、こういう光景は、どこにでもよく見られる。「関係がない!」英語で言うと「Not Your business!」だったか、こんな便利な言葉はないのである。こう言ってしまえば、言った途端に、「ルール」を遵守する必要性がなくなってしまうからだ。とにかく、陳腐な「理性」は「狡猾」であるから、自分が「理」に適わぬことをしようとするたびに、相手を「他者化」して自分自身を「正当化」しようとするのである。だから、「もうお前とは何の関係もない!」と言われたら、「お前のために守るルールなど何もない!」と言われているのと同じことである。周りにいる全ての人の「配慮」(妥当なルールを進んで遵守してくれること)なしでは、生きてゆけないのが生き物であり、それゆえ、人間以外の全ての生き物が「習性」や「本能」と呼ばれるルールを頑なに守っているのである。彼らにとっては、自分の行為のルールを変えないことが、周りにいる生き物に対して最大の配慮なのである。また、「たかがモノ」である物質は、「力」にあるルールを頑なに守っている。だからこそ、私たちは「力」を使って思い通りに、物質を動かすことができるのである。世界はみな、人間に対して「配慮」をしてくれている。いつも通りのルールに従って行為し変化するという「配慮」をしてくれているのである。ただ人間だけが、「配慮」をしないのである。人に対しても、世界に対しても、「配慮」をしない。妥当なルールをずっと守り続けてあげるという「配慮」をしないのである。人間は、誰に対してどんなルールで接するかを、自分自身で決めることができる。自分に「関係」のあることなら、「ルール」を生じさせるが、ほとんどの人間にとって世界にいる人は全く関係のない「他者」なのだから、彼らを便利に扱うルールばかりを生じさせるのである。「他者」に対して「便利に扱うルール」を守らせておくには、「力」が必要である。「力関係」に決着を付けて、「他者」を「敗者」にすると「自分に有利なルール」をずっと守らせておくことができるのである。「縁」など切れても構わない、相手が傷ついたりしても構わない、貧しくても構わない、何せ人にとって自分の周りにいるほとんどの人は、全く韓液のない「赤の他人」なのだから。

 私は、この宇宙に「他者」を全く持っていない人間である。私は、どういうわけか、宇宙にある全時空(過去も未来も)に存在する全てのものとの「関係性を確保」してしまったのである。どうして私のようなものが、この宇宙にある全ての存在との間の「縁」を持てたのかはわからない。ただ、この宇宙にある全てのものが「物理法則」という同じルールを守っているもの同士であることを知ったその瞬間に、私は全身で宇宙にある全ての存在と永遠の「縁」を結んだのである。だから、私にはこの宇宙の中に「特別」なものは何一つ存在していない。「特別」な配慮をするものは何一つないのである。申し訳ないが、ゴーダマもイエス様もムハンマド様も私は特別だとは思っていないし、聖地だのといって「特別」な場所もあるとは思っていないのである。だからと言って、別に私のルールが間違っているわけではない。私はただ、仏様を扱うようにこの宇宙の全てのものに「配慮」し、聖地にいるときのようにこの宇宙の中ならどこででも「配慮」するのであるから。

 この宇宙は、同じルールを守っているものだけがいる場所である。同じルールを守っているがゆえに、どんなものでも「傷つけること」ができるのである。でも、この宇宙の全時空が「法治フィールド」であることを知り、「ルール」本来の意味や価値に気づけば、「ルール」はお互いに「壊れないようにするため」「傷つかないようにするため」にあることにもお気づきになるはずである。「自他」の間に「平等で妥当なルール」を掛ければ、お互いに「利自則利他」であり、お互いに安心して暮らしてゆけるのである。「自他」の間には「区別」がある。私とみなさんは決して「同じ」ではない。だから「区別」はある。だが、「区別」はあってもお互いに「同一のルール」に従うことで、「差別」はなくなる。「滅、我他彼此!」は「無差別」を説くものであって求道者には最高の悟りの一つだが、「自他」が共に「同一のルール」に従うことで簡単に得られるものなのである。 
 
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